その日の放課後。
 帰り支度を終えた樹美が、アルバイト先のコンビニに行こうとして席を立った瞬間、ピンポンパンポーンと校内放送が始まった。

(アタシには関係ないよね)

 そう思って廊下を歩き始める。ただの雑音と変わらない放送――のはずだったのだが、なぜか樹美の名前が出てきたのだ。上ばきをはいた足がキュッという音とともに静止する。

「一年二組の芹澤樹美さん、一年二組の芹澤樹美さん。至急、生徒会室の隣のスクールセキュリティシステムルームまで来てください」
「はぁ!? アタシ、これからバイトなんですけど!?」

 思わず文句を言ってしまった直後、たまたま近くにいたクラスメイトの真理亜から「でも、行った方がいいと思うよ~。だって、呼び出しに逆らったら退学になるってウワサがあるし」と忠告を受けた。

「退学は、困る……しょうがないから行ってくる」
「うん、それがいいと思うよ。頑張ってね、芹澤さん!」

 なぜか力いっぱい掲げた右手を振りながら見送られて、樹美は苦笑した。真理亜の言動が、徒競走の順番が回ってきた時のことを想起させたからだ。


 今年の四月に入学して以来、スクールセキュリティシステムルームになど縁がなかった樹美は、大きな校舎を何度か迷いながらやっとのことで目的地にたどり着いた。

(あーもう! 広すぎんだよ、この学校! そもそもスクールセキュリティなんちゃらってなんの部屋?)

 心中で悪態をつきつつも、きちんと「失礼しますっ!」と大きな声で言いながら、生徒会室横のスクールセキュリティシステムルーム――通称SSSルーム――のドアをスライドさせた。

 さえぎる物がなくなり、室内の様子が目に飛び込んでくる。
 SSSルームは他の教室と同じように机と椅子が並んでおり、ズラっと十人以上の生徒が席についていた。全員の視線が出入り口にいる樹美に集中する。

 予想外に人が多かったせいで一瞬ひるんでしまったが、すぐに平常心を取り戻してから樹美は室内を見回した。

 全校生徒の九割が男子なのだから当然といえば当然だが、SSSルームにいるほとんどの生徒が男子だった。女子はひとりしかいない。
 そのせいもあるのだろうが、なんとなくそれ以外の理由から来る圧を感じながらも見知った顔を見つけて、樹美は思わず声を上げた。

「あっ! 秋良!」
「ああ。待っていたぞ、芹澤。あと呼び捨てはやめろ。矢吹先輩と呼んでくれ」
「ごめん。つい」

 ふたりのやり取りがあった直後、室内が急に沸騰したヤカンのようにざわつき出した。

「あ、秋良……!? 呼び捨て!?」
「うわぁ。矢吹くんてば隅に置けないねぇ」
「てか、これがウワサの芹澤さんかぁ」
「こんな細身の女性が痴漢退治を?」

 このカラスが鳴き合うような状況を変えたのは、三年生であり集団のリーダーでもある加藤耀(かとうよう)だった。

「お前ら、静かにしろ!」

 加藤が叫んだ途端、水を打ったように室内は静かになった。
 加藤は目鼻立ちは整ってはいるが、目つきや雰囲気がカタギのそれではない。
 そのせいで、彼ににらまれた者は蛇ににらまれたカエル状態になるというのがもっぱらの噂だ。

 加藤は椅子から立ち上がると、樹美に向かって声をかけた。

「一年二組の芹澤樹美さん。俺は三年三組の加藤耀だ。忙しいところ呼び出してすまない。中に入って、適当な席に座ってくれ」
「あの、アタシ本当に忙しくて。これからバイトなんです。用件ならここで聞きます」

 樹美が加藤の迫力にまったく動じずにそう言うと、加藤は眉を上げた。他の生徒たちも驚いたように目を見張る。

「初対面で加藤さんにビビんない女の子なんているんだ……」

 この場にいる他の生徒も思っていることをついポロッと口に出したのは、髪を少し明るめに染めているせいで軽薄そうな雰囲気のある前田雪人(まえだゆきと)だ。

 加藤は一瞬だけ前田をギロリとにらんでから、再び樹美に視線を戻した。

「事後報告となって申し訳ないが、君のバイト先には君の出勤が一時間遅れる旨をすでに伝えてある。俺のせいだという事も伝えてあるから安心していい」
「はぁ!? 何を勝手な事を! それに――」

(アタシの一時間分の給料が!)

 と口に出す前に、加藤は「一時間分のバイト代と同額の金は出す。だから落ち着いてほしい」

 それを聞いた樹美は一瞬でおとなしくなった。

「わかった。ならいいよ。先輩の話、聞きます」

 そう話しながら、樹美は室内に入ってどこか空いている席に座ろうとした。すると秋良が小さく手招きして、隣の空いた席を指さすのが見えた。

 首をかしげながらも、見知った相手の隣の方がいいかと思い、樹美は椅子を引いて素直にその席に座った。


 ふたりのやり取りを見た前田が「ヒューヒュー」と冷やかしを始めたが、加藤ににらまれてすぐに黙った。

「では、芹澤樹美さん。改めて君に話がある。SSSに入る気はないか?」
「SSS? それって今朝、あき……矢吹先輩が言ってたヤツ?」

 樹美は遅刻しないように精一杯走ること以外できなくて、SSSがなんのことなのか聞けないままだったことを思い出した。ちらりと秋良の方を見ると彼が小さくうなずいた。

「驚いたな。君は本当にSSSの事を知らないのか」

 加藤が目を丸くしながら樹美を見ると、他の生徒たちも珍しい動物でも見るような視線を向けた。樹美は居心地が悪くなってわずかに肩をすくめる。
 そんな彼女を気遣うように、秋良がすっと右手を挙げた。

「加藤先輩。SSSについて、俺から彼女に説明してもよろしいでしょうか?」
「俺は構わんが」
「ありがとうございます」

 丁寧にお辞儀をしてから、秋良は隣に座る樹美に向き直った。
 朝は余裕がなくてあまりきちんと顔を見られなかったが、やはり秋良はとても整った美しい顔をしていると樹美は思った。実は人気アイドルもしくは人気モデルですと言われても納得してしまうだろうし、むしろそうでないことの方が不自然なくらい美形だ。

 この部屋にいる他の生徒もどういう訳か顔立ちの整った生徒ばかりだが、秋良は飛び抜けて美しいと樹美は思った。

 そんな思考を吹き飛ばすように、秋良は真面目な声で話しだした。

「芹澤。SSSというのは生徒会直轄の治安維持組織――スクールセキュリティシステムの通称だ。三つの単語の頭文字がすべてSだからSSS。校内で起きた事件や事故を調査し解決するために組織されている」
「え? それって教師の仕事じゃないのか?」
「普通の学校ならな。残念ながらここは私立任侠学院。すべてにおいて規格外だ。お前だってこの学院の異質さは少しくらい理解しているだろう?」

 そう話す秋良の目は鋭く細められている。樹美はこくりとうなずいた。

「まあ、な。特待生は入学金も授業料も全部免除されたり、そもそも外部受験の内容もなんか変だったし……学院長は表に出てこないし、そのせいか正体は伝説の大親分だとか言われてる始末だし……」

(その変な受験内容なら勉強が苦手なアタシにも望みがありそうだっていうのと、諸々の費用がタダだからここを受験したんだけど)

 言葉には出さず、樹美は妙な学校を創ってくれた学院長に感謝した。貧乏な家に生まれ、そのせいで一時は進学も危ぶまれ、現在は現在でアルバイト代を家に入れている樹美にとっては、会ったこともない学院長は救世主のような存在なのである。

「そう。ここは普通の学校とは違う。そして君は今年唯一、外部受験によって合格した特待生だ。俺たちSSSのメンバーは以前から君に興味を持っていた」
「興味?」

 樹美が小首を傾げる。

「ああ。入学金と授業料が全面免除されるという理由で外部受験者はそれなりに多いが、合格する者は極めて少ないのがこの学院の通例らしい。合格者がひとりもいなかった年もあるそうだ。そんな状況の中、君は合格した」
「う、うん」

 嫌な予感を(いだ)きながら、樹美はためらいがちにうなずいた。

「SSS内ではすぐに君をスカウトしたらどうかという声があがったこともあったが、しばらくは様子を見る事で落ち着いた。そして――俺は今朝、果敢にもひとりで痴漢を捕まえようとしている君と遭遇した」
「う、うん?」
「芹澤樹美。君にはSSSとしての素質がある。加藤先輩に君を推薦したのはこの俺だ」
「いやえっと……推薦って言われても……」

 戸惑う樹美をよそに、畳みかけるように秋良は口にした。

「学院の平和を守るためには君のような人間が必要だと俺は思う。ぜひ、SSSに入って俺たちと一緒に学院を守ってくれ」

 秋良は真剣な目をしながら、樹美の両手を掴んだ。そのままぎゅっと握られて、思わず樹美の肩がすくむ。さらには頬も熱くなった。

(ひぃ! 初めて男子に手を握られた!)

「でも……その、SSSって具体的に何するかわかんないし! アタシ、バイトもあるし!」
「SSSなら君が働いているバイト先の時給の三倍は出るぞ」

 それを聞いた瞬間、樹美は反射的に「SSSに入る!」と口走っていたのだった。