「だっ、誰かー! そいつ捕まえて! 痴漢なの!」

 とっくの昔に桜が花を散らし終わった五月。この月特有の病に悩まされる人間が多い平日の駅のホームに、妙齢の女性の叫び声が響いた。
 朝の駅ホームには人が多い。出勤前、登校前の人間が電車を利用するからだ。そしてそこからさらに分類分けをすると、叫び声にギョッとして足を止める者、自分には関係ないことだと決め込みマイペースに動く者、当事者たちの三種類しか存在しない――はずだった。

「任せろ!」

 黒いパンツスーツに身を包んだ長身の少女・芹澤樹美(せりざわいつみ)が、ダッと勢いをつけて走り出す。確実に、彼女は先ほど挙げた三種類とは異なる四種類目の存在だった。
 しっかりと結われた短めのポニーテールをなびかせながら、あっという間に、痴漢と呼ばれ逃げていた中年男性に追いついてしまう。

「逃げるなっ!」

 樹美は中年男性の両肩を後ろから掴むと、そのまま勢いをつけて壁まで追い詰めてしまった。

「は、離せっ! ちくしょうっ!」

 無我夢中で男が暴れだした。壁に押さえつける力を強くしながら、樹美は歯を食いしばる。

(くそっ……朝寝坊して朝食を抜いたせいで力が出ないっ)

 誰かが駅員を呼ぶ声が響いてきた途端、つい樹美は気をゆるませてしまった。
 それがよくなかった。期を逃さなかった男が最後の力を振り絞るように暴れたせいで、その身体を押さえつけ続けられなくなった樹美は後ろに転ばされてしまったのだ。

「いてっ!」

 樹美が尻もちをついた隙に、男は体勢を整えながらよろよろと走り出してしまった。このままではせっかく捕まえた痴漢に逃げられてしまう。

(そうはさせない!)

 樹美は素早く身を起こし、再び男の後を追った。が、次の瞬間――

「ぐああっ!」

 断末魔のような叫び声と共に男が床に伏していた。

「えっ!?」

 樹美が訳もわからず呆然としていると、男の脇には自分と同じく黒いスーツ姿の若い男性がいた。まだ十代に見えるその面立ちは、アイドルかモデルではないかというくらいには整っている。

(すごっ……美形! じゃなくて!)

「アンタ、この男に何したんだ!?」
「何って。この男の股間を思いっきり蹴っただけだが?」
「うわ……えげつな……」
「だが、この男は痴漢なんだろう? 別にそれくらいしてもよくないか?」

 アイドル顔の少年から真顔で問われ、真剣に悩んでいると、駅員が駆けつけてきた。後ろには最初に叫んでいた女性もいる。

「あっ! あいつです、床に転がってるあいつが痴漢!」
「床に転がっ……えぇ!?」

 戸惑う駅員の声を聞いた後、アイドル顔は「逃げるぞ」と樹美に声をかけてきた。

「逃げる? なんで?」
「このままだと過剰防衛で犯罪者にされる可能性があるし、駅員や警察に事情を聞かれる羽目になったら確実に学校に遅刻するからだ」

 樹美は「いや、過剰防衛はアンタだけだろ」とツッコミたくなったが、一度は痴漢を拘束していた自分も、このままここに居れば駅員や警察に事情を聞かれることになるのは明白だと判断してうなずいた。

 ふたりしてこの場からから走り去る。
 アイドル顔の後ろを走りながら、樹美は嬉しそうに礼を告げた。

「アンタ、ありがとな」
「何がだ?」

 振り返ることなく問われる。

「アタシが逃しちまった痴漢、捕まえてくれただろ? だからお礼」
「別に君のためじゃない。弱きを助け、強きをくじいた。ただそれだけだ」

 淡々とした口調で返された。けれど、樹美はその言葉を聞いてますます笑顔になった。

「アンタ、いい人なんだな」
「別に俺はいい人なんかじゃない。自分がしたいことをやっただけだ」
「うーん。ますますいい人だなぁ、アンタ。かっこいいよ!」

 樹美がかっこいいと言った途端、アイドル顔の体勢が崩れた。走る速度も落ちてしまっている。首をかしげながらよく観察してみると、形のよい耳が赤くなっていた。

(もしかして照れてるのか……? 見かけによらず可愛いな、この人)

「……その、『アンタ』というのはやめてくれないか? 俺には矢吹明良(やぶきあきら)というれっきとした名前があるんだ」

 相変わらず振り返らずに、アイドル顔こと明良が言った。

「分かった。明良だな」
「いや、できれば矢吹先輩と呼んでほしいんだが」
「先輩? アンタ、何歳なんだ? つーか、もしかして同じ学校!?」

 樹美は興奮して走る速度を上げ、明良の隣に並んだ。

「今さら気づいたのか。服装で気づかないか?」
「気づかないよ! だって、ただの趣味で黒いスーツ着てる可能性もあるじゃん! てか、なんでアタシが年下だってわかった!?」
「四月に入学したばかりの特待生、芹澤樹美。君は有名だからな。俺たちSSS(スリーエス)の間で知らない者はいない」

 当然のように言われ、樹美は面食らった。こんなアイドルのような顔立ちの先輩から名前も顔も知られているなんて、思いもよらなかったからだ。

「アタシって学校内で有名だったの? つーかSSSってなんだっけ?」

 樹美がそう口にした途端、明良は信じられない物を見るような目を向けてきた。

「あの学院に通っていながら、SSSを知らないだと!?」
「知らないとダメだったのか?」
「……駄目というか……どうやったら知らずに生活できるんだ?」
「そう言われても……あっ! 明良、スピード上げろ! このままのんびり走ってたら遅刻する!」

 左手首に巻かれた腕時計を見ながら樹美が叫ぶと、明良は「遅刻はいかん。走るぞ、芹澤!」と叫び返してきた。

「応!」

 ふたりはまるでスプリンターのような速さで歩道を駆け抜けた。その少し目立つ服装も手伝って道行く人々の注目を集めながら、なんとか予鈴が鳴る前に学院の中に入ることができたのだった。


 樹美が教室に入ると、まるで磁石に吸い寄せられる砂のようにクラスメイトたちが寄ってきた。

「ねぇっ! 教室の窓から見てたけど、芹澤さんと一緒に走ってたの矢吹先輩だよね!?」
「目を付けらるようなことをしたのか?」
「芹澤ちゃん、なんかやらかしちゃったの?」

 クラスで樹美を除いて唯一の女子である安倍真理亜(あべまりあ)以外は、『芹澤樹美が何かやらかしたから矢吹秋良に目を付けられてしまい、一緒に登校してきたのだ』と解釈しているようだった。

(失礼だなぁ)

 樹美は憤慨した。

「アタシは別になんもしてないっての! あき……矢吹先輩と登校することになったのも偶然だから!」

 樹美が周囲をにらみつけながら叫ぶ。彼女の迫力に負けて、クラスメイトたちは蜘蛛の子を散らすように離れていった。
 そのおかげで、樹美はやっと自分の席につくことができた。ほっと息を吐く。

 しかし樹美の主張を聞いても、クラスメイトたちは釈然としていなかった。
 なぜなら樹美が一緒に登校した相手である矢吹秋良は、この学院においてテレビに映る有名アイドルと変わらないくらい人気があり、さらにはそれと同じくらい恐れられている生徒の一人だからだ。

 樹美は学院内の常識や流行に疎いので、そんなことは全く知らないのだが。