佐倉夫人を訪ねた帰り道は、二人は車の後部座席に座った。もうすっかり辺りが暗い。

 樹李亜は言った。
「今日はかっしーが一緒に来てくれて助かったよ、ありがとう。私一人じゃ、お屋敷にだって入れなかったよ……」

 人の家を訪問するのに身分証明書が必要だとか、思ってもみなかったのだ。

 豪は笑った。
「単に慣れているだけ……俺の家も似たようなものだし」
「かっしーの実家?」
「そう。だいたい、あんな感じ」
「へえ……どんな所だろう、行ってみたいな」
「何しに?!」
「遊びに。お友達の家に行くのって、楽しいでしょう?」
「あ、そういうこと……」
「駅でいうと、どの辺なの?」

 この質問に、豪はすぐに答えない。何かを考え込んでいる。
 樹李亜は質問の仕方が悪かったかと思って、聞き直した。

「電車の、最寄り駅だよ? そこから歩くのか、バスなのか……」
「わからない」
「へっ?」
「移動はいつも車だし、徒歩で家に帰ったり、出かけたりしないから……」

(おお、そうなのか……? 公共交通機関の発達した、この東京で……?)
 樹李亜は歩く。電車の一駅や二駅分くらい、平気で歩く。別にこれは東京では珍しくないし、同年代の生徒たちはみなそうしているものだと思っていた。

「じゃあ、今度一緒に電車で行ってみようよ。電車乗ったことは?」
「あるよ」
「地下鉄は?」
「ロンドンで乗った」
「……東京では乗ったことあるの?」
「ない」
「じゃあさ、地下鉄乗って、月島にもんじゃ焼き食べに行こうよ。食べたことないでしょ?!」
「ないよ……」
「やった! 桜子と一楓くんんも誘って行こうね。みんなで行った方が楽しいし」
「……」

 少し考えてから豪が言った。
「栄田さん」
「何?」
「今度、学校にいる時にも、声かけていい?」
「いいよ。何で?」
「別に。学校でも一緒にいられたら、楽しそうだなと思って。寮だけでなくて」
「そうだね」
「それと、……金曜日のダンスパーティーで、パートナーは決まった?」
「あ、それも決めなくちゃいけないのか。ドレスの次はダンスの相手か……どうしよう……」
「よかったら、俺が一緒に踊ろうか?」
「ぜひ、お願いしたいけど……かっしーはそれで大丈夫なの?」
「それは大丈夫。今まで、決まった相手もいなかったし……」
「パーティーでは、踊らないの?」
「パートナーがいないと、一曲だけお願いして……男子は真珠さんと、女子は大和さんと踊ってたことが多かったかな……」

 それを聞いて樹李亜は、
 『大和さんと踊ったら、真珠さんに一生恨まれるよ!』
 と、桜子が言っていたのを思い出した。

「桜子は? 桜子も大和さんと踊ってた?」
「どうだったかな……そもそも美加野原さんは……踊ってたっけ……?」 

 思い出そうと豪が考えを巡らせる。
 突然、静かになった。

「おーい。もしもーし。……なんだ、寝てるのか」
 傾いて来た樹李亜の頭を、豪の肩が受け止めた。



*****

 車はアルファタワーの車寄せで停車する。

「着いたよ」
 肩を叩かれて起こされた。
 樹李亜ははっとして目を覚まし、豪と目が合って慌てる。
「ごめん! 私、寄りかかって寝てなかった?」
「いや、大丈夫……」

 豪は先に後部座席から降り、次に降りようとする樹李亜に手を貸す。

「あ、ありがとう。……?」

 前よりも強く、手を握られたような気がするのは、気のせいか。


 エレベーターに乗ると、豪はすぐに二階と三階のボタンを押した。
「俺の部屋は三階だから……それじゃあ」

 二階では樹李亜だけが降り、豪を乗せてエレベーターはそのまま行ってしまった。

(何だろう……)
 樹李亜は少しだけ物足りなさを感じた。



*****

 樹李亜が206号室に帰ると、部屋は明るいのにとても静かだった。
 テーブルの上には花が飾られている。コスモスと、撫子と、昼間に一楓が持っていた花だ。

「……桜子?」
「いるよ……」

 ベッドの上で桜子が突っ伏していた。その視線はぼうっと、テーブルの上の花を見つめている。

「お花、きれいだね」

 樹李亜が言うと、桜子はベッドの上で飛び起きた。

(おお、めちゃくちゃ怪しい……)

 樹李亜はわざとらしく会話を続ける。
「お花は、誰かが、活けてくれたの?」
「違うよ……! あいつじゃないよ、私だよ! あいつは花をくれただけで……誰も部屋には入れてないんだから! 本当だよ!!」
「わかったわかった、わかったから……」

 桜子の慌てっぷりが全てを物語っている気がした。
 コスモスは『秋桜』と書くし、名前の中に桜子の『桜』の字を持っている。一楓が花を贈りたい相手は、桜子だったのだ。

「そういえば、一楓くんは、日本に婚約者がいると言っていたよ……」
「……あたしのことだ……うわぁ……」

 観念したように桜子は言い、再びベッドの上に顔を伏した。かと思うと突然立ち上がって、部屋を仕切るカーテンを閉めた。

「桜子?」
「ごめーん、今日はダメ。今日だけはダメなの、また明日になったら全部話すからさあ……もうだめだぁ。おやすみーーー」

 どうやら隠し事が苦手な性格らしい。
 桜子の部屋部分の電気が消えた。樹李亜は暗くなったカーテンの向こう側に、言う。

「そんなの、……話したいときに話してくれればいいよー、おやすみー」

(桜子と一楓くんか……結構お似合いかも)
 樹李亜はうれしくなる。

 昨日今日のことのはずがない。
 アルファクラスでいい旦那を探すだとか、口では言いながらも、桜子の心はとっくに決まっていたのだ。