樹李亜と豪を乗せた車は、大きな門の前でいったん停車する。門の先にはまだ車道が続いている。

「栄田さん、学生証を貸して」
 樹李亜は豪にそれを手渡す。豪が助手席から降りて、門の脇の守衛室に走っていく。
 やがて豪と守衛室から一人が走って来て、その人は運転手と言葉を交わす。身振り手振りで、門の先の道順を伝えているようだ。

 守衛が門を開ける。車は門を通り過ぎて、屋敷の正面で止まる。
 車から降りる時、豪は当然のように樹李亜に手を差し出す。樹李亜はその手を取って車から降りる。

(手を取ってもらうのって、二回目だ……)

 初めての時より少し、なんだか気恥ずかしい。



***

「靴のままお入りください……こちらでお待ちを。奥様はすぐにいらっしゃいます」

 通されたのは玄関を入ってすぐの応接室。広々とした空間。靴音のしない絨毯。
 大きなソファが向い合わせに二組ある。ピアノがある。
 飲み物と茶菓が運ばれてきて、テーブルの上に並べられる。

 給仕の係が去って、樹李亜はソファに座ったものの、気分はまったく落ち着かない。

「今は待つしかない」
と、豪は言う。
「本人が会うと言ってくれてるんだから、会ってくれるさ。ほら、座って」

 その言葉で樹李亜はソファに座る。重みでソファが沈み込む。

「何か飲む? コーヒーに紅茶、ジュースもあるよ……」
 豪が飲み物をすすめてくれる、その言葉もまったく耳に入らないくらいだった。


 五分ほどしたところで、樹李亜はまた立ち上がってそわそわしだした。

「前の来客が遅れているんだろう、よくあることだ」
「かっしーは、よく、落ち着いて座っていられるわね……」

 ついに見かねたように豪が言った。

「じゃあ、何か、待ってる間にしかできないことをしよう」
「例えば?」
「ダンスは? あんた、踊れないといっていただろう?」
「そうだけど、……ここで?」
「そう。そんなに広さは必要ないから」

 豪は立ちあがると、樹李亜の隣に来た。

「まずはお辞儀から。女性の場合は足を後ろに引いて、膝を曲げて腰を落とす……」

 豪が先にお手本をやってみせる。その仕草が妙にかわいらしい。
 樹李亜がにやにやしていると、豪が少しむっとして言った。

「笑ってないで……あんたもやるんだよ……そう、でもお辞儀で頭は下げない、軽くあごを引くだけ……」

 お辞儀の次は、足のステップ。

 それも終わると、
「じゃあ、実際に組んで踊ってみよう。右手はここへ、左手は俺の肩に……」
「……わっ」

 足がもつれて樹李亜はバランスを崩す。豪は彼女の手と腰を強く支え、落ち着いて言った。

「大丈夫、もっとパートナーのことを、頼っていい……」


***

 あっという間に時間は過ぎた。

 小一時間したところで、屋敷の女主人が姿を現した。
 佐倉秋子(さくらあきこ)夫人。髪は後ろにまとめ、服装は品のいいブラウスに長めのフレアースカート。

「ああ、本当にごめんなさいね、すっかりお待たせしちゃって。前のお客さんがなかなか帰らないものだから……あら、それはダンスの練習ね?」

 佐倉夫人は豪と樹李亜が向かい合って、手を取り合っていることに気づく。二人はびっくりしたようにお互いから離れる。

「すみません、こんな所で……」
「いいの、懐かしいわ。私もね、夫とはダンスパーティーで出会ったの。今日は紹介できなくて残念……どうぞ、座って」

 佐倉夫人は樹李亜と豪の向かいのソファに座った。
 樹李亜は持ってきた花束を渡す。

「あの、これを……私の友だちが選んでくれました」
「まあ、素敵」
 佐倉夫人は大袈裟に喜んだ。
秋桜(コスモス)ね……私、名前の中に『秋』も『さくら』もあるでしょう……それに藤袴(ふじばかま)……」

 佐倉夫人の旧姓は藤川(ふじかわ)。藤袴の花の名前が藤色の袴の少女に由来することから、その花は夫人の少女時代を連想させた。

「お心遣いに感激したと、ご友人にも伝えてね」
「はい……」

(花にそんな意味があったのか……)
あの一瞬で花束を作り上げた一楓のことを、感心して思い出した。

 佐倉夫人はおしゃべりを続け、ドレス、靴、アクセサリーなどを樹李亜に譲ると申し出た。アルファタワーの保管庫になかった分は、後日届けさせるとのことだ。
 樹李亜は恐縮して言った。

「そんなにいただくわけには……」
「いいのいいの、もらってちょうだい。どうせ私は使わない物だし……私にお返しをしようなんて考えなくていいの。また二十年経ったら、今度はあなたがその人を……何か助けてあげてちょうだい。その方がずっと素敵でしょう。そうしてちょうだい、ね?」
「ありがとうございます……そうすると、お約束します」
「あなた、真面目ね。……いつの時代にも、心無いことをいう人がいるものだけど、気にしないことね。すぐに時代はあなたたちのものになるんだから……!」

 佐倉夫人は快活に笑った。

「すっかり遅くなってしまったわね。でも帰り道、男の子が一緒なら、安心ね?」

 この言葉には豪がうなずく。
 二人を見送って、夫人は最後に聞いた。

「あなたたち、学校は、寮生活は、楽しい?」
「はい」
「楽しいです」

 二人同時に、自信を持って答えた。