その男子生徒は一人で現れた。細い身体つきながら両手に大きなスーツケースを引いている。
 『アルファタワー』の入口ゲートを通り、一階のエレベーターホールで立ち止まっている所に樹李亜が声をかけた。男子生徒はエレベーターの操作方法に困っている様子だった。

「エレベーターのボタンを押すのに、『ID』がいるよ」
「ああ、そうか。ありがとう。僕は今日から来たんで、分からなかった」

 男子生徒は自分の腕のバンドを読み取り部にかざし、エレベーターの上ボタンを押した。

 その時、ホールに飾ってある花瓶から、花が数本、垂れ下がって下に落ちた。男子生徒はすぐに気づいて花を拾うと、花瓶の中に花を戻し、さらに活けてある花全体のバランスを整え直した。前よりも、ぐっと見栄えが良くなった。

 エレベーターの到着音がした。男子生徒は何事もなかったかのように、両手にスーツケースを持ち直し、樹李亜に言う。

「来たよ、乗ろう」
「お花、素敵になったね。すごい早業だね」
「これが僕の本職なんだ」
「本職?」
「生け花の……師匠をしている」

 師匠だと言ったが、それはずいぶん控えめな言い方だというのが、話していくうちに分かった。

 
 彼の名前は泉宮一楓(いずみや いちか)泉宮(せんぐう)流という古くから続く生け花の家元で、彼は宗家の跡取りだった。

「ずっと泉宮(せんぐう)流の海外支部を任されてきたんだけど、ようやく日本に帰って来れた」

 帰国したのは、日本で高校と大学を卒業するためだという。

「日本の学校でなきゃいけないの?」
「僕はいずれ日本で、二百万人の門徒の頂点に立つ人間だからね。そうでないと、人々が納得しない」
「いろいろと事情があるんだね?」
「うん。それに、日本には僕の婚約者がいて……」

 本当にいろいろと事情がありそうだった。



***

 一楓(いちか)は、他の生徒たちと群れなかった。
 この日も彼はカフェテリアで一人で食事をとっていた。樹李亜と桜子がそれを見かけ、声をかけて近くに座った。

「そういえば、」
と、一楓(いちか)が切り出した。
「ランドリーが設置されたのは、君の要望だったと聞いたよ」
「うん、かっしーが、かけあってくれたみたい」
「かっしー?」
「寮長のこと」
「なるほど、……」
 
 寮長の名前が樫村豪(かしむら ごう)で、あだ名が『かっしー』。
 豪の尽力によるものか、樹李亜が言い出した一週間後には、各居住フロア洗濯機と乾燥機が設置された。
 その後も樹李亜はこれまでになかった問題を引き起こした。豪はいちいち説明を求める面倒くさい面もあったが、頼りになった。おかげさまで彼とはすっかり親しくなっていた。
 
「でも、いいことだと、僕も思ったよ」
「そう思う?」
「幸福の基準を、分業と効率化に求めるのか、自給自足に求めるのか、という違いだね。その思想の違いは、古くは西洋のユートピアと東洋の桃源郷に表されていて……」

 一楓は時々、小難しい話をする。

 ふと樹李亜は桜子の方を見る。一楓といる時、なぜか桜子はしゃべらない。
 普段あれほど、歯に衣着せず、機関銃のようにしゃべるのに、だ。
 うつむいていて、目を合わせないようにしている。

(絶対に、変だ。なんか、おかしいよ)

 そこに寮長がやって来た。
「先に知らせておくけど……編入生の歓迎会の日程が決まったんだ。来週の金曜日」
「あ……!」
 それを聞いて樹李亜が思わず大声をあげた。

「どうした?」
「忘れてたけど、それってダンスパーティー?」
「そう。ドレスコードは女子はイブニングドレス、男子はタキシードの正装で、『左回りのワルツ』と、あとは自由に踊る」
「だめだぁ……」

 豪と桜子と一楓の三人は三人とも、何がだめなのか分からない、といった顔で樹李亜を見る。

「私、踊れない。ドレスもないし。パーティーって、欠席できないの?」
「編入生が主役だからそれはないかな……仮に都合が悪ければ、日程変更して開かれるだろうし」
「私、アルファクラス、やめたいな……もともと、レベルが違い過ぎて合ってないし……」

 樹李亜は意気消沈してうなだれる。
 きっぱりと豪は言った。

「それはできない」
「なんで?!」
「……いったんアルファクラスに入ると、そこから元の学籍には戻れない。やめるには退学するしかないんだ」

 相変わらず豪は説明口調だった。樹李亜が呆然として黙り込む。
 すると、それまで黙っていた桜子が怒ったように割って入った。

「樹李亜は学校をやめたいって言ってるんじゃないの。パーティーに出たいけどドレスがないって言っているだけ。問題を間違えないで」
「……悪かった。ごめん」

 豪は素直に謝った。
 一楓が言った。

「樹李亜、君のメンターは誰だっけ?」
「大和さん」
「じゃあ、まずはメンターに相談してみたら? それが順番というものだろうし」

 それに、目上の人間を巻き込んでおかないと、後で面倒なことになるし……と、一楓はつぶやいた。


 樹李亜にが最初に『アルファタワー』にやって来てから、二週間が過ぎていた。