確かにこの病気を発症した時から、日奈子の頑張りは常に空回りを繰り返していた。
 男性恐怖症を克服したいと気張った時も、結局心労から、倒れてしまった。

「本当にごめん」
「日奈子は悪くない。悪いのは、全部《《あいつ》》だよ」
 
 そう吐き捨てた琥珀。ふと彼女を見ると、憤りを隠せないと言う表情。

 あいつ……。

 だが琥珀は、突然立ち上がると自分用に買った水のペットボトルを開けて、勢いよくゴクゴクと飲み干してしまった。
 500ミリリットルを飲み干して強く息を吐いた琥珀は、日奈子が《《あいつ》》を思い出す前に。
 
「あいつの話は止めだ。建設的に未来の話をしよう」

 と、告げると、日奈子の方を向いて続ける。
 
「日奈子。作戦を立てよう」 
「……作戦?」
 
 琥珀を見上げて小首を傾げた日奈子。琥珀は一つ頷いて続ける。

「ホームルームでは、これからは発言することがほぼない。日直も一昨日やったしね。だから、恙《つつが》無くやり過ごす。多分、遊馬も何もないのに日奈子を名指ししたりはできないはず」
「う、うん」
「問題は数学の時間だ。私も遊馬の授業スタイルは解らん。ただ淡々と座学をやらせるのか、それとも前で問題を解かせるスタイルなのか……」
「座学スタイルなら、近くに来たときにちょっと我慢したら、何とかはなる……けど……」
「問題は前に呼び出すスタイルの時だ」

 今、数学は中学の総復習をしていて、三吉先生は出席番号順に当てて板書をさせていっていた。
 もし遊馬くんが三好先生をの授業スタイルを踏襲するならば、遊馬くんとの距離はぐんと近くなってしまう。
 そしたらどうなってしまうのか。
 それは日奈子にも、琥珀にもわからない。

 琥珀は腕を組みしばらく黙って考えている。日奈子はそんな琥珀を見上げていたが、琥珀の目が、日奈子の顔を捉えた。

「日奈子、中学までの数学なら、すらすら解けるよね?」
「……うん」
「遊馬仕込みだもんね!」
「う、うん」
「じゃぁ、三吉先生が復帰するまで、どれくらいかかるかわからないけど、中学の総復習が終わるまで、板書で当てられた時だけ耐えて。もし具合が悪くなったら、私が助けるから!」

 琥珀はいつもそう言って、日奈子を支えてくれる。
 それが嬉しくて、でも時々とても申し訳なくて。
 日奈子は「うん」と頷いて微笑んだ。

 教室に戻るとすでに朝のショートホームルームは終わっていて。教室内に遊馬くんの姿はなく、クラスの女の子たちが日奈子を心配して声をかけてくれた。
 遊馬くんは、自分と琥珀が兄妹だと言うことにも触れず、次の授業の準備へと向かったらしい。

 本日の数学の時間は四時間目。

 遊馬くんを……男性教師を意識せずに過ごすなんてできるかな。

 不安に苛まれそうな心を、日奈子はぐっと立て直した。

 できるかなじゃなく、やらなくちゃ……。