琥珀が連れてきてくれたのは、保健室ではなく、学校の中庭だった。中庭には植栽とベンチが配置されていて、片隅には飲み物の自動販売機が設置されている。
 休み時間には生徒の憩いの場である中庭も、朝のショートホームルームのこの時間は、日奈子と琥珀しかいない。

「飲み物買ってくいるから、ちょっと待ってて。水でいいね?」
 
 琥珀は日奈子を自販機に一番近いベンチに座らせると、スカートのポケットからハンドタオルを取り出して、日奈子の膝に落とした。
 これで涙や汗を拭けと言うことなのだろう。
 日奈子がハンドタオルと手にするのも見届けず、琥珀は足早に自販機の方へと走っていく。
 その間、日奈子は自分の気持ちを落ち着けるように、大きく呼吸を整え始めた。
 吸って吐いてを繰り返すうちに、体が落ち着いてくる。

 夢ではない。
 
 病気欠勤の三好先生の代わりに、遊馬くんが、クラスの臨時担任になった。

 担任は女性の先生だから安心していた矢先だったのに。
 
 いや、別に、男性教師が臨時の担任だったら、まだこの心は平穏を保てただろう。なぜなら、恐怖症の発症にだけ気を配っていたら良かったのだから。
 しかし遊馬くんは勝手が違う。

 ああ、これからどうしよう。
 吐いた息は、呼吸なのか、ため息なのか。

「はい、水」

 声に反応して顔を上げると、琥珀が日奈子に水が入ったペットボトルを差し出していた。

「ありがと」

 受け取って蓋を開けようとするが、手に力は入らない。蓋から手を離せば、小刻みに震えていた。
 
「握力18も出ないか……」

 日奈子の隣に腰を下ろした琥珀は、日奈子の手からペットボトルを抜き取ると、ボトルの蓋を捻り開けた。

「ほら」

 差し出されたボトルは、軽く閉められている。

「琥珀、ごめん……」

 日奈子は謝罪を口にすると、ボトルの蓋を開けて水を一口、二口と含み、飲み込んだ。
 ボトルの蓋も開けられないほど動揺していて、ごめん。
 あんなタイミングで泣いてしまって、ごめん。
 琥珀は日奈子の肩を抱いてぽんぽんと叩くと、「いや」と口に出さいて続ける。
  
「これはもう不可抗力だし、日奈子が謝ることじゃないけど……最悪の事態だよ……」
 
 どうすんのこれ。と、大きなため息をついて頭を抱える。

「三吉先生が体調崩したのはいい。いや、よくないけど、仕方がない。人間だもの。具合も悪くなる。具合悪かったらしっかり休んで治してほしい。でもね、なんでよりによって遊馬が来るの? え、遊馬これからしばらく担任なの? 数学の時もいるの? さいあくだ……」

 琥珀は日奈子以上にこの状況をよくないものだと感じているようだった。
 兄である遊馬くんと、親友である日奈子との板挟みで、一番頭を使い大立ち回りを繰り広げなければならないのは、誰でもない琥珀。
 その心中は察するにあまりある。
 これはわたしがしっかりしたら、いい話なんだ。

「……琥珀、わたし頑張る……」
「いや、がんばるな。がんばらんでいい。こんな状態じゃヒナが頑張ったところで、最悪の結末が見え見えなんだわ」
 
 日奈子の決意表明は、あっけなく却下されてしまう。