家で綺麗にした上履きの靴底がまた汚れたけど、気にしてなんかいられない。
 運動もしていないのに息が上がり、心臓もドキドキと早鐘を打ち続ける。
 だけど、昇降口の奥が気になって。
 向こう側の遊馬くんに見つからないように、長く垂れる髪を耳にかけながらそっと覗き込んだ。
 
 すると遊馬くんを囲んだ三年生の一団が、ちょうど、琥珀の前に差し掛かったところ。遊馬くんが妹の琥珀に気づいて声をかけた。

「お前遅刻せずに来たのか。えらいぞ」

 そう言って爽やかに微笑む遊馬くんに対し、琥珀は「は?」と怪訝な声を出して続ける。

「それ、遊馬が言うのか? わたしを寝不足にさせたお前が……」

 琥珀の発言は誤解を招いた。
 三年生の先輩たちが一斉に、怪訝な表情で遊馬くんを見たのだ。

「……寝不足?」
「え、どう言うこと?」
「如何わし――」
「妹だ。名札見て」
 
 あらぬ想像を膨らませていく三年生に対し、遊馬くんは琥珀の名札を指差して誤解を解いた。

「あ、ほんとだ、佐倉だ」
「女版遊馬じゃんー。かわいいー」
「琥珀ちゃんっていうの?」

 先輩たちの先ほどまでの怪訝な表情が一変。可愛い妹分の登場に表情が緩んでいる。
 琥珀は「はい」と返事をして、続けた。
 
「はい、さくらこはくです。不肖の兄がいつもお世話になっています」

 ぺこりとお辞儀をした琥珀に対し、先輩たちも上機嫌。
 
「ご丁寧にどうも」
「はい、さくらは新任なので、お世話しまくってまーす」
「いや、まって。君たちのお世話してるのは、俺の方だわ」

 ノリのいい三年生たちと妹に冷静に突っ込んでいく遊馬くんだったが、ふと、目線を上げた。

 目が合う……!

 日奈子は咄嗟に頭を引っ込めると、口元を両手で覆った。 

 十メートルくらい先で見ている分には大丈夫だった。
 だけど、向こうがわたしを認識すると思うと、体が勝手に反応してしまう。
 学校でわたしを鵜抜く男性教師の目が、わたしはいまだに怖いんだ。

 荒くなった呼吸を深呼吸で整え始めると、琥珀の声が聞こえた。 

「ほら早くいきなよ。先輩たちのために奉仕しな」

 琥珀の強い物言いに対し、「あ、あぁ」と我に返ったように呟いた遊馬くんの気持ちも揺れ動いているのだろう。
 それがわかるからこそ、日奈子の胸はぎゅっと苦しくなる。

 対して、事情を知らない先輩たちの声は明るい。
 
「じゃぁねー琥珀ちゃん!」
「はい、兄をよろしくお願いします」

 そう言った琥珀に、苦笑の遊馬くん言った。
 
「……覚えてろよ」

 だけど琥珀は、その言葉さえしれっと返す。
 
「佐倉先生、怖いですよ」

 琥珀のこの言葉を最後に、遊馬くんの声は聞こえなくなった。

 日奈子が恐る恐る昇降口を覗くと、琥珀がおいでおいでと手招いていた。駆け寄ると琥珀は、遊馬くんが歩いて行った方を覗き見ながら呟いた。
 
「遊馬たち、行ったよ……」
「……うん、ありがと……」

 そうお礼は言うものの今の日奈子には、遊馬くんの背すら見送ることはできなかった。
 けど、このままでいいはずがない。

「……わたし……、恐怖症克服したい……」

 決意を呟いてみたものの、平坦ではないことは日奈子が一番よくわかっていた。