綴にチカくんのペンネームなんて教えるんじゃなかった。

大合唱する蝉たちに鼓膜をいたぶられながら、綴に手を引かれて店へ向かう。
できるだけ日陰を歩いてみるものの、日焼け止めを塗りたくった肌の表面からは汗が浮き出てくる。

鉄板のうえでフランベされるお肉って、こんな気分なのかな。

「綴がバッグ持ってるなんてめずらしいね。なにが入ってるの?」

「小説持ってきた。サインもらおうと思って」

「えっ、サイン?」

「頼んだら駄目かな」

「大丈夫だと思うけど……」

数日前。チカくんのペンネームをふいに思い出して告げると、綴は「一生のお願いだから、会わせて」と興奮気味に頼んできた。
綴の本棚にずらりと並んだ小説の背表紙には、チカくんのペンネーム。
小説の帯まできちんと保管されていた。

ティッシュ一ダース必須の泣けるミステリー作家。
それがチカくんの肩書きのようだ。

ティッシュが必要なのは作家本人じゃない? と帯を眺めながら、チカくんの涙を思い出した。
大粒で、どこまでも透明で、不純物のいっさい入っていない生まれたての(つゆ)