神殺しのクロノスタシスⅤ〜前編〜

「はぁ…はぁ…」

慌てて振り向くと、そこにはもうネズミはいなかった。

…どうやら、諦めてくれたらしい。

穴の外までは追いかけてこないんだな。

餌を探していたと言うより、単に自分の縄張りに、知らない奴が入り込んだのが不快だったのかも。

…ともあれ、俺もシルナも生き延びたぞ。

早速、命の危機を感じたがな。

こんなミニチュアサイズじゃ、ネズミ一匹で命取りだ。

「はぁ…死ぬかと思った…」

ネズミだったから、まだマシだったよ。

あれが犬とか猫だったら、さすがに逃げられなかったと思うぞ。

…それで。

「…おい、シルナ。大丈夫か?」

「…はにゃほれふりゃ〜…」

大丈夫ではなさそうだな。

ネズミの脅威から逃れたシルナは、ぐるぐると目を回していた。

ご老人には刺激が強過ぎたのかもしれない。

無理もない。ご老人だからな。

しかし、今は目を回している場合じゃないんだよ。

「…しっかりしろ!シルナ!」

「ふにゃっ!!」

背中をバシンと叩くと、シルナは奇声をあげて飛び上がった。

正気に戻ったか?

何だかもう、砂漠を一つ越えたような気さえしてくるが。

進んだ距離は、全然大したことない。

最初にいた部屋の、隣の部屋に来ただけだからな。

まだ全然進んでない。

この部屋に、都合良く招待状が落ちていれば良いんだが…。

「…それで、ここは何処だ…?」

さっきいた部屋より、ずっと広いようだ。

しかも、カチャカチャ、ガチャガチャと騒がしい音がする。

これは何の音…かと思ったら。

「っ!シルナ、逃げろ!」

「ふぇっ!?わわわっ!!」

巨大な人影が迫り、危うく俺とシルナとプチッ、と踏み潰すところだった。

間一髪、俺達は横に躱して、足の裏で踏み潰されずに済んだ。

物陰に隠れて、俺達は巨大な人影を見上げた。

…人間だ。

原寸大、等身大の人間。

当然だが、今の俺達にとってはネズミなんかよりずっと巨大に見える。

しかも、普通の人間じゃない。

身体は人間なのに…顔は、ネズミだった。

「ひえっ…。ネズミ人間…?」

「…みたいだな…」

…こえー…。

あんなのにうっかり踏み潰されたら、ひとたまりもないぞ。

コスプレ…とかじゃないよな?

足元を彷徨くテントウムシに、注意しながら歩く人はいない。

切ないよな…。

俺達も普段、道を歩くとき…うっかり虫を踏み潰しながら歩いてるんだろうな。

申し訳ないことをした。

虫のサイズになって、初めて気づいた。

テントウムシだって、必死に生きてるんだってことを。

…いや、俺達はテントウムシではないけども。

「人間か…」

「ティーセットの世界」に来て、初めて見る人間だ。

白いコック帽を被り、白いコックコートに身を包んだ人間。

いや、顔がネズミだから、ネズミ人間と言うべきなんだろうけど。

ネズミが…コックみたいな格好をしている。

さっき俺達を追いかけたネズミの仲間…ではなさそうだな。

シェフがいるってことは、じゃあここは…。

「…ふわぁ…。良い匂いする〜…」

うっとりとした顔で、シルナが言った。

呑気だな、お前は本当に。

でも、確かに…部屋中が、甘い香りに包まれていた。

やはり間違いない。

ここは、何処かのお屋敷の厨房なのだ。