たぶん、世界の色も、匂いも、音も、感触も変わったのは、この日から。


 襟元の第2ボタンまで開けて坂を上る。重いリュックサックが肩からずり落ちて、頭もぼうっとしてくる中、イライラしながらもう一度背負い直す。どうしてこの学校は夏休み前最後の登校日まで授業を詰め込んでくるのだろう。

 瑞己の通う進学校は渋谷区の中心にあって駅から降りて十五分ほどかかり、しかも最後に道路沿いの長い坂を登らなければならない。ヒートアイランド現象も相俟って夏は登校だけでへとへとになってしまう。

 ようやく校門をくぐり教室に着くと、省エネ第一と先生に口うるさく言われているがエアコンは最低温度に設定されていた。だが瑞己は窓際の一番奥ーー太陽光が最も射し込む場所なので机の上が焼けたように熱かった。

「おはよ、瑞己。もう朝から暑くて耐えられないよね」
「そんなこと言って、花織(かおり)は今日も綺麗な髪、下ろしてるじゃん」

 ロングヘアーの彼女はいつも髪を下ろしていた。体育の最中も、何ら気にせず艶のある黒髪をなびかせている。瑞己は汗をかくタイプの人間だったから、夏の間でも涼しげに長袖シャツを肘まで巻いて過ごせる周りの女子高校生が羨ましかった。

「夏休みはどっか遊びに行こうね。毎日勉強してたら息詰まっちゃう」
「もちろん。でも部活の大会が終わるまでは厳しいかな。ナベチャンに怒られちゃう」
 
 先生のことを軽く愛称で呼んでいる彼女との約束が決行されることは、きっとない。