「どうしましたか、神谷雅希女史」
「私、最初に特進クラスの教室に行ったんだ。そのとき男子の先輩に、“神谷雅希”ってフルネーム言われて。私はその先輩と面識ないし、名前すら知らない人だから、ちょっと・・ううん、正直言ってかなり気味悪かった」
「雅希ちゃんが言いたいこと分かる。自分は全然知らない人から突然自分の名前を呼ばれたら、私でも警戒するよ」
「あ、そっか。この場合、“気味悪い”って“警戒心”とイコールなんだ」
「そうですね。まあ神谷雅希女史の場合、この学園の理事長とは親戚関係であるという事実から、ある意味公的な有名人と言いますか。もちろん、この学園内に限定されますが。ですので残念ながら、この学園内で神谷雅希女史ご自身は面識がなくても、神谷雅希女史の名前を存じている人は多いと思います。それでも佐渡真珠女史がおっしゃるとおり、自分は見ず知らずな人から自分の名前を正確に言い当てられると、誰もが警戒心を抱くのは当然の事でしょう。いずれにしても気持ちの良いものではありません。むしろ警戒心を抱くことは自然の摂理だと思います。その点、綿貫雄馬氏の場合は、神谷雅希女史よりも公の度合いが少し重く、かつ強いとでも申しましょうか」
「あぁ、綿貫さんの父親は政治家だもんね」
「確か次の都知事選に立候補するっていうウワサがあるって言ってたよね」
「お二人のおっしゃるとおりです。ですから綿貫雄馬氏も、おそらく見ず知らずの人から名前を呼ばれることがあるでしょう。そのときは警戒心を抱きつつ、今の時期は特に“次期都知事の息子”としてそつのないふるまいをしながら、無難に愛想よく有権者に応える必要があるのかもしれません」
「それでかな」「なにが?」
「私、綿貫さんと“正面”衝突したって、さっき言ったでしょ」「うん」
「そのとき私は、名前のことでムカムカしてたから前見てなかったんだ」
「なるほど。つまり、そのとき“綿貫雄馬氏も前方不注意だった、だからお互いに、正面から衝突した”と、神谷雅希女史は言いたいのですね?」
「そのとおり」

あのとき綿貫さんは、「何か考え事をしていたから」、前方不注意だった。
さらに言うと、「前方不注意になるくらい、深刻に」綿貫さんは考え事をしていた。

だから私たちは「正面」からぶつかった。
綿貫さんは一体何を考えてたんだろ。それも「深刻になるようなこと」を―――。