僕には好きな人がいる。
その人は魔女で、そして、その人も僕のことが好きだと言ってくれた。
目を瞑る。
「雫さん……」
真っ暗な瞼の裏に、果てのない宇宙が広がった。偽物の宇宙。
本物なんて知らないけれど、それは確かに偽物で、僕にはお似合いの空だ。
そこに、雫さんの唇の生々しい感触と彼女の香りが蘇る。柔く、昏い闇の味。
彼女はどうしてあのタイミングで、僕へ告白してくれたのか。僕にキスをしたのか。
雫さんのそのキスは、固く閉ざされた記憶の扉を開くトリガーとなった。
思い出してしまった。
兄がいなくなった、あの日のことを。
兄の帰りを待っていた、十年前のあの日。
崩れゆくタワーの残骸の隙間から覗く、兄の姿。
兄は襲われていた。黒い化け物に。
そして、兄は僕の目の前で、消えた。
空に昇る不気味なきのこ雲と、赤いレースの切れ端が漂う空。
昏い穴を前に、僕は放心して立ち尽くした。
しばらくそうしていたら、僕の立つ反対側に兄がいた。僕はハッとして、声のかぎり叫んだ。
『お兄ちゃん!』
けれど、兄に僕の声は届いていなかった。
兄は寝転がって、笑っていた。僕は精一杯叫ぶけれど、兄の元へは全然届かない。
あんなに大きなタワーが崩れているけれど、良かった、兄は無事だった。僕は急いで兄の元へ向かう。
僕は兄の名前を叫び、駆ける。
もう少し、あともう少し……。
僕は烟る視界の中、必死で兄の姿を追った。
けれど、僕がそこへ辿り着く前に、兄は真っ黒な蝶のような化け物に食われた。
『お兄ちゃん!』
酷い地鳴りが響いて、足元が揺れた。崩れていたタワーが、またさらに崩れようとしていた。
僕は転び、涙を拭う。
そして次の瞬間には、僕の視界も真っ暗になった。
ああ、僕はもう死ぬんだと、そう思った。
――街中の方から聞こえる騒がしいサイレンの音に、僕は目を開く。ゆっくりと重い体を持ち上げて、時計を見る。
「…………夢か」
時刻は午前一時。真夜中だ。
生々しいそれが夢であったことに安堵して、僕はもう一度横になり、目を伏せた。
……眠い。
強く閉じた目の縁から、涙が静かに流れていく。僕はそれを、雑な仕草で拭った。
「……そっか。あのときのあれは……そうだったのか」
――ようやく思い出した。兄を殺したのは、雫さんだ。
あの黒い化け物。あのときはなんだか分からなかったそれは、黒いレースだった。
紛れもなく雫さんの術である、漆黒のレース。
兄は雫さんに、きっとなにかの願いごとをしたんだ。それで、『対価』として、命を差し出したのだろう。
兄は『対価』に……雫さんに殺された。
「なんでだよ…………」
僕は震える声で、愛しい人の名を呼んだ。
僕にはそんなこと、ひと言も言ってくれなかった。雫さんは初めて会ったあの日から、僕のことを知っていたのだろうか。
一人きりの部屋。なにもない部屋。窓を隠す赤いカーテンの隙間から、昏い影が入り込んでくる。
残酷な闇が、僕に迫る。
たとえ、どんなことがあっても彼女を嫌いになんてなれないと思っていたけれど。
思い出してしまった今、僕はもう戻れない。