ゴードンが六年前に戻ってから、一週間ほど経った日のことだった。

「ああ……頭がガンガンする」

 深酒をしたわけでもないのに、最近は寝起きの体調が悪い。吐きそうになるし、何とも言えないけだるさがあって、なかなかベッドから起き上がれなかった。
 ようやく身を起こすことができたのは昼近くになってからだった。

「ゴードン様、ようやくお目覚めですか? お茶をお持ちしましたよ」

 そうティーセットを持って入ってきたのは、客室に滞在しているルシアだった。

「ルシアか……」

(この甲高い声が頭に響くな……)

 ゴードンは顔をしかめつつも、ルシアが持ってきた紅茶を飲む。ルシアが心配そうに顔を寄せてくる。

「ゴードン様、お加減はいかがですか?」

「うん……昨日お酒を飲みすぎたせいかな……。すっきりしない」

 以前は浴びるほどお酒を飲んでいたが、ここ数日、本調子ではないため就寝前に一杯程度に抑えているのだが……いっこうに良くならなかった。

(軽い風邪でも引いたかな……?)

 このくらいの風邪なら何度も引いたことがある。寝ればすぐに治るはずだ、と思った。

(そういえば、前にローズが治療と称して俺に会いにきたのはいつだっただろう?)

 ローズはこれまでは治療と言って週に一度は邸にやってきていた。
 どうやら過去に戻った日はちょうどローズの来訪予定の日だったらしいが、彼女が来ることはなかった。そんなふうに無断キャンセルされたのは初めてのことでゴードンは困惑した。
 つまり、この体ではもう二週間以上もローズに会えていないことになる。
 先日、ゴードンはローズに初めてラブレターを送った。
 内容は『強がっていないで、さっさと俺に会いに来い』というもの。ゴードンからしたら最大の愛情表現である。
 しかし、その返事がなく気がかりだった。神殿に使いも出したが門前払いされている。

(手紙を受け取ったらすぐに翌日にでも顔を出すと思っていたのに……あいつ浮気ごときで、そんなに腹を立てているのか? 俺がこんなに譲歩してやっているというのに)

 その時、ルシアがベッド脇に座り、そっとゴードンの手を握ってきた。彼女の目は期待に満ちている。

「ゴードン様。私は今、客人扱いですが……いつになったら、ご両親に婚約者だと紹介していただけるのでしょうか? まだ、ご両親にも挨拶できていません」

(また、その話か……)

 ゴードンはげんなりした。その話を毎日聞かされているのである。
 六年後の彼女ならまだしも、今のゴードンは二十歳で、ルシアは十二歳。貴族同士の婚約ならこのくらいの年の差は珍しくもないが、童顔で十二歳以下にしか見えないルシアを婚約者として両親に紹介はできなかった。しかも今の彼女は聖女ではなく、ただの平民だ。反対されるのは目に見えている。

「少し待ってくれないか……俺が……」

 その時、慌ただしく扉がノックされて父親のコルケット伯爵が入ってきた。後ろに母親もいる。
 コルケット伯爵は見慣れない顔──ルシアを見て片眉を上げる。

「きみが執事から聞いていた客人か」

「はっ、初めましてお父様! わたくしはゴードン様のこん──」

 勝手にルシアが名乗り始めてしまいゴードンは慌てて止めに入ろうとしたが、コルケット伯爵が冷たくルシアを一瞥する。

「申し訳ないが、少々息子と話があるのだ。出て行ってもらえるか?」

 にべもない態度にルシアはショックを受けたらしく凍り付く。
 その隙を見逃さず、ゴードンはルシアの背を押して部屋から出した。「すまない。今は急用なんだ。また後で」「お父様達にちゃんと話してくださいませ」そんなやりとりで、ぷりぷり怒っているルシアをなだめた。
 コルケット伯爵は戻ってきたゴードンに渋面を作って言う。

「商売女と遊ぶのは咎めないが、彼女は若すぎるのではないか? お前の好みではないだろう」

 ゴードンの女癖を知っている邸の住人達は、ゴードンが新しい性的嗜好に目覚めたのだと思っていた。大人の女性から幼児趣味に。

「違います! 彼女はその……ただの知り合いで」

 ロリコンと思われるのが耐えがたくて、ゴードンはそう弁解する。

「まあ、良い。それより、ゴードン! お前、ローズ嬢に何をしたんだ?」

「えっ……何って……?」

 眉根をよせているゴードンに、コルケット伯爵は一枚の書状を広げて見せた。
 それはネルソン公爵からで、娘のローズとゴードンの婚約を解消するから同意しろ、という旨の内容が書かれていた。弁護士の名前まで書かれているから本物に違いない。
 コルケット伯爵は真っ赤になって怒鳴る。

「私がネルソン公爵令嬢との婚約を取りまとめてやったというのに! ほら、文章の中に『理由はゴードン様がよくご存じでしょうから、ここでは記しませんが我々はローズの気持ちを尊重します……』と書かれているじゃないか! お前、ローズ嬢に何かしたのか!?」

(……嘘だろ……まさか、あのおとなしい女が婚約解消を望むとは)

 ゴードンは衝撃から立ち直るのに時間がかかった。慌てて言いつくろう。

「たっ、ただの浮気が見つかって、ローズが拗ねているだけですよ! まったく、ローズの奴、こんなに大事にするとは……」

「浮気だと?」

 コルケット伯爵は不思議そうに眉を上げた。その表情には『そんなことで?』と書かれている。伯爵の後ろでは伯爵夫人が顔を伏せている。
 浮気なんて貴族なら日常茶飯事。いちいち取り上げるようなことではないし、男のそれは大した醜聞ではない。この邸ではそういう認識だった。

(やっぱり俺は悪くないな)

 ゴードンは内心ほっとした。自分の価値観が間違っていないことに。
 父親だって浮気している。母親は愛人を黙認している。貴族の結婚はそれが普通だ、とゴードンは幼い頃から父親に言われて育った。
 確かに世の中には浮気をしない一途な男もいるが、奴らは本能にあらがっているだけの愚か者だとゴードンは本気で思っている。

「そう、ただの浮気なんです。ローズは大げさですよね」

 コルケット伯爵は「ふむ……」と顎を撫でて、書状を見おろした。やや口調は落ち着いたものの、依然として表情は険しい。

「まさか、浮気程度で……ネルソン公爵が婚約破棄するとは思ってもいなかった。あいつは昔から私の言いなりだったからな。……しかし、これはまずいことになった。ローズ嬢の持参金は莫大だったんだぞ。公爵家は良い金づるなのに。せっかく公爵家と縁続きになれるチャンスを……」

「それは……大丈夫です。ローズには手紙を出していますから、すぐに返事が来るでしょう」

「自信があるようだな?」

「ええ、ローズは俺に惚れているので。今は拗ねて距離を置いているだけですから」

 ゴードンは内心不安になりつつあったが、強がってそう言った。
 ローズは一週間と置かずにコルケット伯爵家に来ては、治療と称してゴードンと会っていた。『必要ない』と、いくらゴードンがすげなく告げても彼女は来ることを決して止めなかった。
 その必死な態度に、そんなに自分に会いたいのかと内心笑っていたのだが……。
 そんな愛の重い彼女だから、ゴードンが想いに応えてやれば、おとなしく婚約を続けるはずだ。

(やはりローズと婚約破棄したのは間違いだった……お父様の言う通りだ)

 公爵令嬢のローズと平民出のルシアでは持参金も違う。かつては胸の大きさはルシアの圧勝だったし、伯爵家は潤沢な資産があるのだからと、ゴードンはルシアが元平民の聖女でも大して気にしていなかった。
 ──だが、父親が言うようにローズは失うには惜しい人材だ。巨乳のルシアを失った今は、なおさらそう思う。
 それまで黙っていた伯爵夫人が、困ったような表情でため息を落とした。

「……ローズは愛想がなくて気に入らなかったけれど、彼女がいないと、ベイビーちゃんの病気を治せないわ」

 伯爵夫人は、ゴードンを幼い日の愛称のままに『僕ちゃん』や『ベイビーちゃん』と呼ぶ。そしてゴードンも母親には甘えていた。

「ママ、僕ちゃん病気はもう治っているんだよ。それにローズはしっかり躾けるから心配しないで」

 ルシアが見たら百年の愛も冷めそうなやり取りだったが、不幸か幸いか、今はこの場に彼女はいない。
 二人の会話にコルケット伯爵はわざとらしくゴホンと咳払いする。

「そういえば、最近邸で彼女を見かけないが、最近治療してもらったのはいつだ? まさか一週間以上会っていないんじゃないだろうな」

 コルケット伯爵は厳しい口調で、そう尋ねてくる。

(ああ、またか……)

 ゴードンはうんざりした。
 もう完全に自分の病は治っているのに、心配性な両親のせいでこれまでずっとローズの治療を受け続けなければならなかった。
 確かに幼い頃は不治の病で苦しんだのだろう。だが、それは昔の話だ。

「何度も言わせないでください! 俺はもう治ったので大丈夫です。──それに神殿女官を邸に滞在させていますので、万が一、病気が再発するようなことがあったとしても大丈夫です」

 ゴードンの言葉に、コルケット伯爵は不審そうな顔をする。

「神殿女官? もしかして、先ほどの客人か?」

「はい。聖女候補だった少女です。訳あって、今は神殿を離れているのですが……聖力は相当なものがありますよ。ローズを凌ぐくらいに」

 ルシアは正確には聖女候補ではなかったが──ゴードンは気にせず設定を盛った。

(神殿を追放されていなければ聖女になっていたんだ。間違ってはいない)

 少なくとも最弱聖女と言われていたローズよりはルシアの方が治癒力は上だろうと、ゴードンは思っている。
 ゴードンの言葉に、コルケット伯爵はようやく安堵したように表情を緩めた。
 
「そうか……それなら心強いな。うむ……確かに私も心配しすぎていたかもしれない。もうお前の病気は完治しているかもしれないしな」

 しかし彼らが自分の考えが間違っていたことに気付くのは、もう少し後の話──。