「なっ、何よこれ!?」

 ルシアは窓ガラスに貼りついて、映っている自分の姿に思わず素っ頓狂な声を上げた。
 手にはぞうきん、足元にはバケツに入った汚れた水。そこには神殿衣装を身にまとった十二歳くらいの少女がいた。

「なっ、なななななんでぇ!?」

 胸元を触るとぺたんこで、身長も十八歳の時と比べたら十センチは小さくなっていた。これまでに見ていた景色の高さが違う。
 あまりのことにショックを受けて動けないでいると、後ろから咳払いの音が聞こえてきた。
 振り返るとそこにいたのは神殿女官長キンバリーだった。

「ルシア、神聖な場で大声を出すとは何事です」

「だ、だだだって……いきなり、こんな……」

 わなわな震えているルシアに何を思ったが、女官長は重苦しいため息を落とした。

「……あなたの掃除はいつも雑ね。もう良いわ。庭園の水やりをしてきなさい」

「そっ、そんな! 聖女の私がどうして、そんなことを──」

 頭がカッとなって、そう言いかけて──その言葉は女官長の平手打ちを頬に受けて口を閉ざした。

「な、ん……ッ」

(信じられない……! 私を誰だと思っているの!?)

 腫れた頬を手で覆いながら反論しようとしたが、女官長の氷のような眼差しを見てルシアは言葉を失う。

「あなたは聖女ではないでしょう。当代聖女はローズ・ネルソン様です。無礼な発言でしたが、今回だけは見逃してあげましょう……行きなさい」

 そう吐き捨てられて、ルシアは悔しさにぞうきんを持つ手を握りしめる。
 無礼を承知で、そのまま無言で中庭へ向かった。庭園につくと、小屋からじょうろを取り出して井戸で水を汲んで花壇に水をやり始める。
 けれど、考えれば考えるほど怒りがふつふつ湧いてきて止まらない。
 ルシアはじょうろを小屋に投げつけ、苛立ちのまま花壇の花を踏みつける。これは聖女の部屋に飾るために育てられているものだ。腹いせにぐちゃぐちゃにしてやる。

「何よ何よ何よ! あのクソ女官長、偉そうに馬鹿にして……ッ! 私が聖女候補になったら、また罪を捏造して神殿から追放してやるんだから!」

 昔から、女官長キンバリーが鬱陶しかった。神殿の規則に口うるさいし、何かと『聖女様、聖女様』と言う彼女が目障りで仕方がなかったのだ。
 ルシアは高位神官達に媚びを売って自分の癒しの力をアピールし続けた。そのかいあって十六歳の時に聖女候補に抜擢されたのだ。
 そして聖女候補になってすぐ、ルシアはキンバリーに窃盗の濡れ衣をかけて神殿から追放した。神殿女官の中にはルシアが弱みを握る者もいたから、証言をでっち上げるのも簡単だった。
『キンバリー様がルシア様の私物を持って部屋から出て行くところを見ました』
 そう言う目撃者がいたら、いくらローズでもどうにもできない。
 肩で息をしながら誰かの気配を感じて反射的に振り返ると、そこにいたのは聖女ローズとその護衛騎士ディランだった。
 二人の険しい表情で、ルシアは話を聞かれたのだと悟る。

「あなた達……ッ!」

 その時、過去に戻ったのは自分だけではないことに、ようやく気付いた。

「……あなたが、キンバリーの罪を捏造したのね。私……気付けなかったわ……」

 ローズは顔を歪めて、拳を握りしめて言う。

「──神殿を出て行きなさい。今すぐによ。あなたに次期聖女の資格はないわ。パルノア教から破門します」

(私に出て行けですって……!?)

 愕然とした。

「わ、私に出て行けですって!? 未来の聖女なのに……ッ」

 ローズにつかみかかろうとしたが、護衛騎士のディランに阻まれた勢いで地面に転がってしまう。次の瞬間には首元に冷たい剣が這わされた。
 ディランの凍るような眼差しで身動きができない。

「殺さずに追放にしてやったのは、聖女様の温情だ。俺はお前とゴードンがローズ様に何をしたか忘れていないぞ」

 殺意を感じて、ぞくりとした。

「わ、分かったわよ。早くそれをどけてよ!」

 ルシアはそう叫んだ。ディランがそっと剣を引っ込めたので、ルシアはお尻で後ずさりしながらローズを睨みつける。

「フ、フン! 私を追放したってゴードン様はあなたの物になんてならないんだからっ」

 そう捨て台詞を吐いて、ルシアは逃げ出した。
 目的地は自室として使っている部屋だ。最低限の荷物を取りに行くために駆ける。ローズの気が変わらないうちに急がなければ、と焦った。

(どうして私がこんな目に……!)

 ルシアは十歳の時に聖女の素質があると分かり神殿入りした、平民出身の娘だ。
 父親は飲んだくれのろくでなし、母親はいつも夫の浮気に泣いてばかり。生意気な弟妹もいる。神殿から追い出されたとしても、あの家に帰る気にはなれなかった。

(そうだわ……! ローズとディランも過去に戻っているなら、きっとゴードン様だって同じ状況のはずだわ! それなら私の力になってくれるはず)

 昨日まで深く愛し合っていたのだ。きっと彼なら力になってくれるだろうとルシアは疑わなかった。


 ◇◆◇


(あっけない……)

 ローズは逃げて行くルシアの背中を見つめながら、そう思った。

「キンバリーに申し訳なかったわ……」

 まさか濡れ衣をかけられて追放されたとは思ってもいなかった。
 これはルシアの本性を見抜けなかった自分に責任がある、と思い、ローズは落ち込む。ルシアに無残に荒らされた花が可哀想だった。

「……過去はどうしようもありません。六年前に戻ってこられたのですから、今度の人生では彼女を幸せにしてあげたら良いと思います。思い悩んだって、それ以上はどうしようもないことですから」

 珍しく饒舌になるディランに、ローズは目をぱちくりさせる。
 そして彼が落ち着きなさげに首を掻いているのを見て、慰めようとしてくれているのだと察した。

「──そうね」

 ローズは口元に微笑みを浮かべる。

「では、次はゴードン様と婚約を解消しなければ。お父様に連絡を入れるわ」

 六年後に浮気されて婚約破棄されるのだ。これ以上ゴードンとこの関係を続ける気にはなれなかった。
 未来で彼らが話したように、ゴードンのそばにはルシアがいる。なら、治療のためにわざわざローズがゴードンの元へ行く必要もないだろう。