用意されたティーカップにそそがれた花茶を口に含み、ほっと一息つく。キンバリーはすでに席を外しており、今はディランと二人きりだった。

「ディランも一緒に飲みましょう」

 そう誘ってみるが、「いいえ、立場が違いますので」と護衛騎士の彼はいつもの堅物な態度を崩さない。
 そんなところは彼らしいのだが、もう少し距離を詰めてくれても良いのに、と不満に思う。

「……昔は一緒にお庭で駆けまわったりしたのになぁ」

 ディランとは公爵領での生活を合わせると十七年の付き合いになる。ゴードンより長い。
 昔は裸足で一緒に木登りだってした仲だったのに、いつの間にか二人の間には越えられない壁ができてしまった。

「いつの頃の話をなさっているのですか」

 ディランは呆れ顔だ。
 けれど突き放すような声音ではなく、表情は優しい。昔の話をする時だけは二人の関係は聖女と騎士ではなく、ただの幼馴染に戻る。

「……あの頃の俺は、無作法でした。奴隷としてネルソン公爵に引き取られたのに、身分不相応に可愛がっていただけて……公爵様から奴隷の身分を解放していただけたばかりか、ローズ様の遊び相手にもしていただけて……当時はローズ様が公爵令嬢とは知らなかったとはいえ、大変な失礼をいたしました」

 ディランは剣の腕に見込みがあるということで、奴隷商からローズの父──ネルソン公爵が買った奴隷だった。見た目が良く、剣の筋が良かったので将来公爵家の騎士団に入れるつもりだったのだろう。
 ローズは身分は関係ないと思っている。幼少期から邸の使用人達とも気兼ねなく遊んでいたので、距離を取ろうとするディランが不思議だった。
 それでも懇願したら、皆がいないところでは呼び捨てにして遊んでくれるようになったのだけど……。

(……でも、十六年前、私がゴードン様との婚約が決まってから、ディランは私と一線を引いて接するようになったのよね……)

 その後は一緒に遊べなくなってしまった。
 それがひどく寂しくて、ローズは彼を泣きながら責めたことがある。けれど彼は悲しげな笑みを浮かべて『……身分が違いますので』と言うだけだった。別に父親や婚約者のゴードンに非難されたわけではない。ただディランがローズの立場を考えて自ら身を引いてしまったのだ。

「わざわざ王都にまで単身で付いてきてくれたんだし、ディランは私のことを嫌ってはいない……わよね?」

 不安になってそう問いかけると、ディランは一瞬黙り込み「……嫌いでは、ありません」と、つぶやいた。

「どうして一瞬間があったの!?」

 内心涙目になりながら勢いよく聞いてしまう。ディランはなぜか頬を赤らめてローズから目を逸らした。そのしぐさが妙に色っぽくて、目が離せなくなってしまう。

(うっ……またディランの無駄な色気が……)

 昔から影のある黒髪に青い目の美少年で、妙に艶があるせいか令嬢達の熱い視線に事欠かない。神殿女官達の中にもディランのファンはたくさんいた。

 ローズとしては面白くない話である。
 今のところ女の影はないが、もしディランに誰か意中の相手でも紹介されたらショックで寝込んでしまうかもしれない。ルシアにゴードンを奪われた時には感じなかった嫉妬を覚えてしまうだろう。

(だってディランは私の初恋の人だもの……)

 ゴードンと婚約してからは胸に秘めていた想い。
 ゴードンのことは愛してはいなかったが、それでも婚約者となったからには彼と幸せな家庭を持とうとローズは十六年尽くしてきた。だからディランへの恋心は墓場まで持って行くつもりだったのだ。
 騎士としてそばにいてくれるだけで幸せだ。たとえ二人一緒になれなくても、近い場所で見守っていきたいと──。
 けれど予想外にゴードンから婚約破棄されてしまった。

(ダメだわ……解放されてしまったから、このままだとディランへの気持ちに抑えがきかなくなりそう)

 二十四歳の彼も格好良かったが、今は十八歳なのに年に似合わない落ち着きと貫禄があって、そのギャップがまた素敵だった。
 ローズは自分の思考が恥ずかしくなり、軽く咳払いをしてディランに笑みを向けた。

「ディラン、私は真面目にこれからのことを話し合いたいの。立っていられたら、ちゃんと話ができないわ!」

「しかし……俺……私には警備もありますので」

「部屋の前には守衛がいるから少しくらい大丈夫よ。あなたも喉が渇いているでしょう? あんなことがあったんだもの。誰も見ていないわ。さあ、座って」

 そう言ってディランを引っ張ってきて強引に座らせる。彼は困った顔をしていたが、やむを得ずといった様子で目の前に置かれたティーカップを口に運んだ。そして緊張していた表情を緩ませる。

「……美味しいです」

「でしょう? 南方ジェラルドから取り寄せた花茶なの」

 お茶を飲むと、気持ちが落ち着いてきた。
 そして、じっくりとあの時のことを考える余裕が生まれてくる。

「私達は六年前に戻ったのよね……死ぬ前に一瞬、炎が見えた気がしたけれど……気のせいだったのかしら?」

 独り言のようにつぶやいた言葉に、ディランはやんわりと首を振る。

「……いえ、気のせいではありません」

「ディラン?」

 ローズは視界がぼやけていたので確信はなかったのだが、ディランは何か見たのだろうか? と首をひねる。
 ディランは困惑しているように手で口元を押さえていた。

「……自分でも信じがたいのですが、俺の体が燃えたのです。まるで魔法のように……でも自分自身は熱くありませんでした」

「それって……」

 いったいどういうことなのか分からず、ローズは困惑する。

(仮にディランの言葉が事実だとすると……)

 魔法を使えるのは王国の祖である聖者アシュの子孫──王に連なる血の者だけだ。
 聖女や神殿女官は癒しと浄化の力を。
 王族は火、水、氷、風、土といった五属性のいずれかの魔法を使えると言われている。
 高貴な血の力が発現するのは、自分の命がおびやかされた時や、身内の窮地などの感情が激しく揺さぶられた時だと言われているが──。
 ローズは深く考えずに言う。

「……もしかして、ディランは国王の落胤だったりするのかしら?」

 落胤──つまり妾から産まれた子のことだ。
 冗談で口にしたことだった。「まさか」と一蹴されると思っていたのに、ディランは真面目な表情で考え始めてしまう。

「……確かに、その可能性はあるかもしれません」

「え? 本当に?」

「ええ。母親が昔は宮殿で洗濯女として働いていたことがある、という話を聞いたことがありますので……もしかしたら王に見初められて、という可能性は十分にありえるかと」

「え!? ど、どうしてそんな落ち着いて話しているの!? 王の落とし子ってことは……この国の王子様ってことじゃない!?」

「……俺も驚いています」

 そう上擦った声でディランは言う。しかし彼はいつもと同じ表情なので、動揺しているのかも傍目には分からない。

「嘘……そんなことある?」

「まだ確定ではありません」

「そ、そうだけど! だって、【奇跡の力】を使えるということは王族しかないじゃない! 癒しの力なら『聖女』って言えるけど! ディランが王子様!?」

「似合いませんか?」

 困ったように問いかけてくるディランに、ローズはぶんぶんと首を振った。

「まさか! ただ、すごく驚いてしまって……」

 ディランは騎士だが、どこか気品があって、どこぞの貴公子のようである。鍛えられた胸板とたくましい腕、すらりと長い手足はとても魅力的で、王子様と言われても違和感がない。

(ああ、落ち着かなきゃ……とにかく、ディランの意思を尊重するべきよね)

 ローズは興奮してしまった己を律して、ディランに向き直る。

「もし、あなたが王族だと名乗り出たいのなら……主である私から国王様に伝えるわ。でも、もし王族として名乗り出たくないなら、このままでも良いと思う。私はディランの気持ちを尊重するわ」

「ローズ様は……俺が王子であった方が嬉しいですか?」

 ひどく真剣な表情で、ディランが尋ねてくる。
 ローズはわずかに目を見開いて、「う~ん……」と考え込む。

「そうね……王子様になるのは格好いいと思うけれど、重責だってあるはずよ。私としては……ディランがそばにいてくれるなら護衛騎士のままで良いと思う」

 ローズの言葉に、ディランは力の抜けたような笑みを浮かべた。

「……また、無意識にそんな殺し文句を」

「えっ……」

 そんな大胆なセリフを言ってしまっただろうか? と自分が言った言葉を思い返して、かぁっと顔面を紅潮させる。

(あっ……、うっかり、ディランがそばにいてくれるなら、なんて言ってしまったわ……恥ずかしい)

 居たたまれなくなり、ローズは慌てて否定する。

「あ、違うの! そういう意味じゃなくて……っ! ディランって頼りになるから、そばにいてくれたら嬉しいなって……」

(ダメだ。うまくフォローできない!)

 むしろ発言するたびに泥沼に嵌っていくようである。人前では聖女の振る舞いができているのに、ローズはディランの前では昔から素が出てしまうのだ。
 首まで真っ赤にしてアワアワしているローズに、ディランはフッと笑みをこぼす。

「──今、覚悟が決まりました。俺は王太子になりたいです。……あなたにふさわしい男になりたいので」

 最後は小声で聞き取れなかった。
 ローズは首を傾げつつも、「わかったわ。それじゃあ、私が国王に手紙を書くわね」

 聖女の専属騎士が国王に面会するのは容易ではない。そもそも彼は神殿の人間だ。その長であるローズが仲介をするのは当然と言える。

「ありがとうございます。ですが、王宮に知らせるのは能力についてもっと調べてからの方が良いと思います。……あの時は自分を見失っていたので、また力を使えるか……どのくらいの能力があるか調べてからにしたいのですが」

 ディランの言葉に、ローズはうなずいた。

「そうね。その方が良いと思うわ。時期がきたら教えて。焦らないで良いからね」

 そして人差し指を顎に当てて考える。

「う~ん……あと残っている謎は……。あの時、急にブレスレットが光って、私とディランが六年前に戻ったのよね……」

「そうですね。そのブレスレットについて、公爵様から何か伺っていませんか?」

 ローズは眉を寄せる。

「いいえ、お父様からは何も……もしかしたら聖遺物かも? とは冗談めかして言われたことはあるけれど……」

 聖遺物には不思議な力があると言われているが、この世界で本物だと確認されている物は数えるほどしかない。

「なるほど。改めて公爵様にご確認なさった方が良いかもしれませんね。もしかしたら、新しい情報を聞けるかもしれませんし」

 そうディランに言われて、ローズは「そうね」と同意してブレスレットを撫でた。
 このブレスレットが奇跡を起こしたのだということは疑いようがない。どうして公爵家がそんなものを所持していたのかは謎だったが。

「それにしても、六年前に二人して戻ったのは本当に不可思議だけれど……これからどうしましょう。あんなことがあったから、もうゴードン様の婚約者ではいられないし。それにルシアも次期聖女には指名できないわ」

「そのことなんですが……ローズ様。もしかしたら、あの二人も六年前に戻っているかもしれません」

 真剣な顔でディランはそう言った。
 ローズはようやくその可能性に気付いて、大きく肩を震わせた。

「あ、そっか……そうよね。あの二人も部屋にいたから……私とディランが過去に戻ったなら、あの時一緒にいたルシアとゴードン様も六年前に戻っていてもおかしくないわね……」

 調べなければ、と思っても、あの時の修羅場を思い出すと怖気づいてしまう。二人に再会したら、食って掛かられるかもしれない。

「ローズ様」

 ディランはそう力強い声でささやくと、ローズの手を握った。その青い瞳には、いつになく真剣な色がある。

「俺があなたを護りますから、心配しないでください」

「……うっ、うん!」

 裏返った声が口から漏れてしまう。

(普段は一線引いているくせに、こういう時だけは遠慮せず近付いてくるんだから……ずるいわ)