「なぜだ、なぜこうも上手くいかない……ッ! 無能な愚民どもめ!」

 劣勢になっていく自軍の様子に、ゴードンは不愉快な気持ちを抑えられなかった。
 ローズや神殿女官達の浄化によって味方の兵士がどんどん意識を取り戻してしまう。エイドリアンの力で再び洗脳しても、ローズや神殿女官達の勢いに負けている。
 二千いたはずの軍勢は千……五百と減っていった。

(クソックッソ……! こうなったら生贄を捧げるしかないか……ッ)

 しかし思った以上に敵の防御が強く傷つけることも困難だった。後方に治療師が控えているという状況は王太子軍の背を押した。自軍は洗脳している兵士と意識を取り戻した者達で現場は大混乱している。

『ああ……あの時と一緒じゃないか……』

 ゴードンの内側でエイドリアンが悲痛な声を漏らす。

『嫌だ、嫌だ、嫌だ……! あの女は俺のものだ!』

 ディランが「ゴードン!」と叫びながら剣をぎらつかせながら馬を駆けてくる。

(――来るか……)

 ゴードンは目を細めた。

「くっ……」

 剣を振るい、飛びかかってくる騎士や兵士を斬り伏せるが、続くディランの剣は受け止めきれなかった。剣を弾き飛ばされ、ゴードンはその場に尻餅をつく。

「……これで終わりだ」

 そう言ってディランは馬から降りて、ゴードンに向かって剣を振り上げた。

「死にたくない死にたくない! ディラン、俺は指輪に操られていただけなんだ!」

 ゴードンは必死にまくしたてる。顔色も変えないディランに焦ったように、ローズに向かって涙ながらに懇願した。

「た、頼む……! ローズ、助けてくれ! ディランを止めてくれ! 俺はお前の元婚約者だったじゃないか。お前は十六年も俺に尽くしてくれたじゃないか! 俺のことを愛しているからだろう……!?」

 ローズは答えない。ただ、小さくため息を落とした。

「……あなたに殺された者達は生き返らない。皆も、殺されたくなかったはずよ」

「あ……」

 ゴードンの顔が初めて後悔に歪む。
 見回せば、いつの間にか自軍の兵士達は一人もいなくなっていた。
 ゴードンは息苦しくなって、その場に両手をついた。ぜいぜいと上手くできない呼吸を繰り返す。

(どうして症状が……次の生贄を捧げるまで、まだ時間があるはずなのに……)

『……こんなに役に立たないとはな』

 エイドリアンの落胆したような声が内側から響いた途端、ゴードンの骨が折れる音がした。ゴッゴッと奇妙な音がして、ゴードンの体中が盛り上がり、皮膚に裂け目が生まれる。ゴードンは白目になり、口の端からは泡を吹いていた。

『もう良い。役立たずは要らん』

 エイドリアンの声が辺りに響いたかと思うとゴードンの背中が裂け、巨大な翼が現れた。内側から鋭い爪を持った黒い体の異形の怪物が現れたのだ。それはゴードンの体に見合わないほどの大きさで、ゴードンの皮膚をべりべりと剥がしていく。
 呆然としていたディランは我に返り、「まずい!」と叫んでゴードンに向かって炎の魔法を放った。完全に形態変化してしまう前に討たねば不利になると考えたのだろう。
 しかしエイドリアンは巨体に似合わない素早さでディランの攻撃をかわした。その尾が周囲をなぎ倒し、兵士達が血を流して崩れ落ちる。

「皆……ッ!」

 ローズは慌てて救援に向かった。
 ディランはエイドリアンに向かって叫んだ。

「やめろ! 周りを傷つけるな!」

『黙れ! 俺に命令するな!』

 エイドリアンは翼を大きく広げたかと思うと、一気に羽ばたいて空へと舞い上がる。風圧だけで兵士達は大きく吹き飛ばされた。ディランはどうにか踏みとどまる。

『邪魔をするならローズも殺すぞ!!』

 エイドリアンは上空から叫ぶ。ディランは舌打ちをして剣を構えた。

「……卑怯者め」

『何だと……?』

「そうだろう、お前は女や兵士を盾に使わなければ勝つこともできない臆病者だ。エイドリアン!」

(どうして俺はその名前を……)

 なぜか分からなかったが、ディランはあの化け物がエイドリアンだと確信していた。そして自分の仇敵なのだと。
 エイドリアンはしばらく押し黙っていたかと思うと、クックックと肩を震わせて笑い始めた。

『良いだろう。お前は俺が殺してやる。一対一でな』

「──望むところだ!」

 周りを傷つけさせないために挑発したのが功を奏した。
 エイドリアンは怒り狂いながら地面に向かって突進してきた。ディランが剣で防御するも、エイドリアンの巨体に力負けしそうになって、ブーツのかかとをつけていた地面がえぐれた。
 ディランはエイドリアンの攻撃をかわし、剣を構え直す。空中にいる相手を見据えながらじりじりと間合いを詰めていく。魔法を放つタイミングを探った。
 再びエイドリアンがディランに向かって飛び掛かってくる。ディランが剣を振るうと、エイドリアンはひらりとかわす。そのまま距離を取るために後退されて、ディランは勢いよく踏み込んだ。

「……ッ!」

 エイドリアンが急降下してくる。その速さは凄まじく、ディランは剣で受け止めたものの、大きく後ろに飛ばされてしまった。

『どうした? 俺はここだ!』

 エイドリアンは嘲笑い、再び低空飛行を始める。ディランが体勢を立て直そうとするも、エイドリアンはスピードを上げ、急旋回しながらディランの背後をとった。

「くっ……」

 ディランが剣を振ろうとするも、エイドリアンの牙によって剣は弾かれてしまう。
 だが、ディランはその瞬間を見逃さなかった。間近に迫るエイドリアンの開いた口に向かって、最大出力にした火炎魔法を解き放つ。

『……ガぁ、アッ!!』

 火だるまになったエイドリアンの巨体が地面に崩れ落ちた。地震のような地響きが起こる。その後に奇妙なほどの静寂が訪れ──。
 エイドリアンはもう動くことはなかった。まるで灰のように皮膚が崩れていく。

「やった……のか?」

 ディランが呟いた途端、割れるような歓声が味方の兵士達から上がった。
 ローズはディランの元に駆け寄ると、彼に飛びついた。

「ローズ……」

「ディラン、無事で良かった……本当に」

 堪え切れなかった涙が頬をつたう。
 ディランはローズを抱きしめ、愛おしげに彼女の髪を撫でた。

「あなたのおかげです」

「いいえ。ディランがいてくれたからよ」

 二人はお互いの顔を見て、微笑み合う。

「……ありがとう」

 ディランはもう一度、感謝の言葉を口にした。