その晩、ローズが女官長キンバリーを含めた聖女候補達と明日のために綿密な打ち合わせをしていた時のことだった。
 困ったような顔をして守衛が入ってきた。

「……聖女様、少々ご報告が……」

 何だかとても言いにくそうにしているので、ローズは首を傾げてしまった。

「どうかしましたか?」

「エステル・ミュラーの部屋の監視をしていたのですが、どうしても彼女が『聖女様にお話ししたいことがある』と主張して聞かないもので……どうしたら良いかとご判断をいただきたく参りました」

「エステルが?」

 意外な人物の名前に、ローズは目を丸くする。

「連れてきましょうか?」

 そう尋ねる兵士に、ローズは首を振った。

「いえ、私が行きます。ちょうど話も切りが良いところだし……皆さんは少し休憩していてください」

 ローズはその場にいる人々にそう伝えて、エステルのところへ向かった。
 守衛に案内されて向かった場所は、神殿女官達の私室のある建物。その中でも、エステルの部屋は聖女候補らしく広い造りの一室が与えられていた。
 扉の前に立っていた見張りの兵士がローズに敬礼をする。
 ローズは深呼吸した後、扉をノックした。

「エステル、入るわよ」

 兵士が扉を開けると、ベッドに腰をかけていたらしいエステルが立ち上がった。その目元は泣きはらしたのか赤く腫れあがっている。

「ローズ様……! お話の機会をくださり、ありがとうございます!」

 近付いてこようとしたエステルを、見張りの兵士達が槍で押しとどめた。

「それ以上、聖女様に近付くんじゃない!」

 完全に犯罪者のような扱いを受けてエステルはショックを受けた顔をしている。ローズは胸が痛むのを感じて、兵士達に向かって言った。

「大丈夫だから。あなた達は下がって」

「ですが……」

 躊躇している守衛達に、ローズはニッコリと笑って見せる。

「大丈夫よ。彼女は聖女候補だった人よ。敬意を払ってちょうだい」

 その言葉に渋々といった様子で兵士達は引き下がった。槍を離されて、エステルはホッとした顔をしている。
 だが、エステルはそれ以上近付いてくることはなく、その場に両膝をついた。そのまま額づく。

「ローズ様……私のような間違いを犯した者に、寛大なご配慮をいただきありがとうございます」

「いえ……」

 彼女が何を話そうとしているのか、ローズには見当もつかなかった。
 エステルは顔を上げて言う。その顔つきには、かつて見たことがないような決意があった。

「ローズ様、失礼ながら明日……反乱軍が攻めてくるという知らせを耳にしました。そこで、どうか私を一神殿女官として使って欲しいのです」

 ローズは驚いて一瞬言葉に詰まった。

「エステル……それは本気で言っているの?」

「ローズ様! 彼女は罪を軽くしてもらうために、そう申しているのでは……」

 そばにいた兵士が苦言を呈した。
 しかし、エステルは涙を流しながら大きく首を振る。

「ローズ様! 信じていただけないかもしれませんが、そんな思いは微塵もございません……! 私は弱みに付け込まれていたとはいえ……ローズ様を害なす者に手を貸してしまいました。とても許されることではないと思っています。もしローズ様が許してくださったとしても、私は神殿を去るつもりです。もう二度とこの地に足を踏み入れることはないとお約束いたします。ですが最後にどうしてもローズ様に──優しくしてくださった神殿の皆様、王都の方々のために、これまでのご恩返しがしたいのです。荷運びでも何でも構いません。ご命令くだされば、敵の陣中に先陣を切ることでもいたします! どうか、私に最後の機会をいただけませんか……!?」

 その真摯な眼差しに、その場にいた者達は誰もが息を飲んだ。

(これが……あのエステルなの?)

 瞳の奥に覚悟の炎を宿した彼女は、とても凛としていた。身を低くしているのに、侵しがたい威厳が備わっている。それはローズでさえ目を見張るほどで。

(これは……)

 ローズはしばらく押し黙った後、うなずいた。

「……良いわ。神殿女官として戦場に参加してちょうだい」

「ありがとうございます! ローズ様……ッ! 必ずお役に立ってみせます!」

 エステルは嬉しそうに笑った。





 なかなか寝付けないまま夜が明けた。
 ローズはいつもよりも動きやすい服装にするべきか悩み、『聖女というのは象徴なのです』と言った先代の言葉を思い出して、いつもよりも神々しい格好にすることを決めた。ローズの姿が目立つほど、兵士達の士気も上がるはずだ。
 神殿女官達にも華やかな服装に着替えさせて──全員が中庭に集まった時、その場の空気を変えるような女性が現れる。
 兵士を連れてやってきたエステルは、今はいつもの分厚い丸眼鏡も外し、豊かな癖のある茶髪も背中に流している。顔にはそばかすもあるし、その恰好は派手ではなく、むしろ処刑台に立とうとする罪人に近いほど質素であるのに、その出で立ちには貫禄があった。神殿女官達は「あの子、誰?」「あんな子いた?」と、ざわついている。
 エステルは背筋をまっすぐにローズの元まで歩いてくると、そっと片膝をつく。

「エステル・ミュラーが参りました」

 その瞬間、ざわめきが最高潮に達した。居並ぶ者達は驚愕の表情を浮かべている。誰もあのエステルと目の前にいる彼女が結びつかなかったのだ。
 火の中でも突き進みそうな迷いのないエステルの眼差しを見て、ローズはゆったりと微笑みながら彼女の肩を叩いた。そして神殿女官達に向かって言った。

「エステル、ご苦労様。このたびの有事にエステルも尽力してくれることになりました」

 そのローズの言葉に、神殿女官達は不安そうな表情になる。エステルが戦争の隙に逃げ出そうとしているのでは……と疑念を浮かべた顔をする者もいる。罪人と肩を並べて戦うことに不満そうな者もいた。
 エステルはその空気を察したのだろう。膝をついたまま神殿女官達に向かって言う。

「……皆さんには、もしかしたら複雑な思いもあるかもしれません。罪を犯した者に背中を預けることをしたくないと思う心理も理解できます。ですが、私は決してあなた方の敵にはならないとお約束致します」

 そして、エステルはローズに向かって言った。

「ローズ様、私は一人で前線に立って兵士達の治療をしたいと存じます。お許しいただけますでしょうか?」

「エステル、それは……」

 ローズもさすがに躊躇する。そこまでの負担は負わせるつもりはなかった。
 神殿女官は後方支援が基本だ。戦場で怪我した者達を味方が後方まで運び、そこで神殿女官達が怪我の治癒をする。
 ──だが確かに治療師が前線に出ることは早く味方を回復させ、状況を立て直せるという利もある。ただし、その神殿女官が敵から狙われやすいというのもあり、普通ならば自殺行為とも言える行動だ。
 しかしエステルがはっきりとそう言い切ったことで、神殿女官達の空気が変わる。エステルの本気を感じ取り、彼女を同行させることに反対意見を唱えようとする者がいなくなった。

(完全に場の空気をコントロールしているわ……)

 ローズは舌を巻いた。
 もちろん、エステルは本気でそう言っているだけなのだろうが、こういう場で皆をまとめあげる能力こそ、神殿の頂点である聖女に必要な能力だ。

(いえ、期待してはいけないけれど……)

 そう内心では自分を制しながらも、エステルが変わってくれたことに喜びを禁じえなかった。

「わかったわ。エステルには前線を任せましょう。味方の兵士達が護ってくれるはずだけれど、危険と感じたらすぐに後方に引いてちょうだい」

 ローズの言葉に、エステルは「はい」と、うなずいた。

「あなたに加護を授けます。きっとエステルを護ってくれるはずよ」

 そう言ってローズはエステルの額に指をあてて、聖力を流し込んだ。
 エステルは「これで百万力ですね」と嬉しそうに笑った。