(眠れない……)

 ゴードンは真夜中に、そっと目蓋を開けた。
 しかし眠気はやってこず、ぼんやりと暗い天井を眺めていた時──普段なら聞き取れないような小さな男女の言い争う声が耳に届いた。

(誰だ……?)

 ゴードンは眉をひそめつつ、喉の渇きを癒そうと水差しを取ったが空だった。舌打ちして、使用人を呼ぼうとして押し留まる。

(誰もいないんだった……)

 我慢してそのまま眠ろうとしたが、やはり声がうるさくて休めそうにない。注意してやろうと思い、仕方なく苦労しながら身を起こす。ズキズキと痛む頭を押さえて、鉛のように重い足を動かしながらゆっくりと廊下に出た。
 声は廊下の先──両親の寝室から聞こえてきていた。わずかに扉が開いているのか、室内の明かりが廊下に漏れている。

(なんだ……?)

 両親が口論するところをゴードンは見たことがない。妻は夫に逆らってはいけない、という貴族女性によくある考えに固執している母親は、たとえ納得いかない時であっても夫を立てる女だったから。
 ──けれど今は、母親が父親に向かってヒステリックな声を上げた。

「あなたはあの子を見捨てるというのですか!?」

 扉に手をかける直前だった。

(なんだ……?)

 室内から響いてきた母親の声に、ぴたりとゴードンは動きを止めた。そのまま隙間から室内を覗き見る。
 暖炉の前で、両親がいがみ合っていた。
 父親がうんざりしたような表情で、ため息を落とす。

「もう決めたことだ。……あの子はもう長くない。私の弟に息子がいるから、彼を養子に取る」

(養子……?)

 それは、つまりゴードンのいとこを伯爵家の跡継ぎに迎えるということだ。

「それではゴードンはどうなってしまうのですかッ!? あの子を見捨てるというおつもり!?」

「仕方ないだろう! できる限りのことはした! 邸にある金目の物は売り払った。使用人だって給金を払えていないから全員逃げて行った! これ以上はどうやっても無理なんだ!」

 父親は苦悶の表情で、母親の肩をつかんで揺すった。

「神殿女官から言われたじゃないか。『息子さんを以前と同じ健康な状態に戻すには千人分の治療が必要になります』と。つまり千人分の寄付金がいるということだ。そんなの払えるわけがない! 一度ならまだしも、それが毎週だなんて……! そんなことをしたら伯爵家は破産してしまう……ッ!」

 母親は嗚咽をこぼしながら崩れ落ちた。

「だからゴードンの治療を止めると……?」

 その言葉にゴードンは凍り付いた。
 母親の体を父親が抱きしめる。

「お前だって分かっているだろう? 伯爵家を存続させるためには、これが最善なんだ。私だって、あの子を救いたい。私だって辛いんだ……! だが、あの子だって苦しみながら生きながらえるのは辛いはずだ。後は自然に任せるべきだと思う。……生きている間は家族の時間を大事にしよう。私達ができるのはそれだけだ」

 ゴードンは荒くなる呼吸を抑えるので必死だった。

(治療を止める? って……嘘だろう?)

 それはつまり、両親がゴードンを見捨てたということだ。
 今聞いた言葉が信じられなくて、床に縫い留められてしまったかのように体が動かない。
 何度も深呼吸して、ようやく気持ちを落ち着かせた。
 そしてゴードンはその場からゆっくりと時間をかけて自室へと戻った。
 先ほどは気付かなかったが、廊下に飾ってあった高価な壺や絵画がなくなっている。金目の物を売り払ったというのは本当のようだ。
 ベッドに倒れ込んだ後、ゴードンは声が響かないように静かに泣いた。
 そして数時間が経過し、月が夜空の中天に輝く頃──両親の部屋からも声が聞こえなくなった時に、事を起こした。
 ゴードンの趣味は武器収集だ。自室にコレクションしていたガラス棚からとっておきの逸品を取り出す。
 切れ味の良い斧だ。
 これなら病気で体力がなくなっているゴードンでも、寝ている両親くらいなら、たやすく殺せるに違いない。

(俺を見捨てた両親は、もう血の繋がりのない他人と同じだ……俺以外の者を伯爵家の後継者に選ぶことは許せない……俺を切り捨てるなんて許さない……ッ!)

 廊下をゆっくりと、斧を引きずりながら歩いて行く。
 時折、窓から差し込む月明かりが絨毯に残る斧の痕を照らした。絨毯は音を消すことに役立ってくれた。

(何が『生きている間は家族の時間を大事に』だ。馬鹿にしやがって……ッ!)

 そっと両親の寝室の扉を開けて中に忍び込む。ベッドの上に二つのふくらみがあった。
 ゴードンは枕元まで歩いて行くと、深く深呼吸する。
 ──そして斧を振り上げた瞬間。
 目を開けた父親と視線が合う。
 しかし、ゴードンは止まらなかった。今さら止められない──いや、止める理由がなかった。そのまま勢いよく斧を振り下ろし、父親の首が飛んで血しぶきが全身にかかった。

「な、何事……?」

 斧がベッドに叩きつけられた揺れで、母親が飛び起きる。
 まだ目がぼんやりとしている様子の母親の首にも、斧を斜めに振り下ろす。

「ゴッぷ……ぁ……ッ」

 母親の頭がごろんとベッドから落ちた。血しぶきが派手に壁を汚した。
 ゴードンの手から斧が落ちる。手が小刻みに震えていた。

(殺した……! 俺はやってやったんだ……ッ!)

「はっ……はは……ハッハッハ! やった! やってやったぞ……! 裏切り者には死を……ゴホンゴホンッ」

 身を屈ませて、ぜいぜいと咳き込んだ。
 少し無理をしてしまったようだ。いつも以上に呼吸が苦しく、額に脂汗が浮かぶ。
 ようやく落ち着いてきた頃、父親の指にはまった指輪が目についた。それはコルケット伯爵に代々伝わる当主の証の指輪だ。

「……これは俺のものだ。これからは俺が当主だ」

 そう吐き捨てて父親の指から血で汚れた指輪を抜き取り、自分の中指にはめ込む。不思議と指輪はゴードンの指にぴったりだった。まるで最初から彼の物だったかのように。
 指輪は突然淡い光を発する。

「な、なんだ……?」

 ゴードンは戸惑ったが、光はすぐに消えてなくなった。しばし眉を寄せていたが、その後は何も起こらなかったので首を傾げつつも斧を拾い上げた。

(あれ……?)

 先ほどまでは重くて仕方がなかったのに、とても軽く感じる。歩くのも不便がなく、呼吸も楽だった。
 理由は分からなかったが、急に体調が良くなったように感じられた。ディランプすることすらできる。

「なんだ……? 何が起こっている?」

(これじゃあ、まるでローズがいた頃の俺みたいじゃないか……)

 急に誰かの低い笑い声が室内に響いた。ゴードンは仰天して辺りを見回したが声の主らしき者は見当たらない。

『これほど魂が同調する子孫に出会えるとはな……クックック、まだ私にもチャンスがあるということか』

 ゴードンは声が指輪から発せられていることに気付いた。
 狼狽して指輪を見つめる。

「この指輪か……?」

 聞きなれない男の声が言う。

『私はエイドリアン・コルケット。お前の先祖だ』

「エイドリアン……?」

 その名前に聞き覚えはなかった。もちろん貴族だから一族の系譜が書かれた書物には目を通したことはあるが、エイドリアンという名前はなかったはずだ。
 困惑しているゴードンに、エイドリアンは恨みのこもった声で言う。

『長い歴史の中で真実が隠されてしまったのだ。お前は聖者アシュの弟であるエイドリアン・コルケットの末裔だ』

「俺が……聖者アシュの弟の子孫だと……?」

『ああ、俺はアシュの呪いのせいで、輪廻の輪から外されて指輪に魂を封じられてしまっていたんだ。これまで力が足りず何もできなかったが……お前のおかげで力を得た。先ほど体が変化したのを感じただろう? アシュの呪いを一時的に軽くできたんだ』

 ゴードンは昼間にモグリの治療師が話していた言葉を思い出した。

(──たしか聖遺物には生贄とか何とか言っていたな……。そういうことか。この指輪は聖遺物で、両親の血を捧げたから俺は回復したということか)

『さらなる生贄を捧げ続けなければ、俺は力を維持できない。お前の体調もすぐに戻ってしまうだろう』

「そっ、それは困る……ッ!」

(もうあんな苦しい思いをするのはたくさんだ)

『ならば俺に生贄を捧げよ。少なくとも七日に一度、千人分の生贄が必要だ』

「千人……」

 ごくりと生唾を飲み込んだ。
 ゴードンの病を治すには千人分の治療が必要だ、と神殿女官は言った。だからなのだろう。ゴードンは拳をぎゅっと握りしめる。

(……病を治すために千人の生贄が必要なら、千人でも万人でも殺してやろう。俺の病が治るまでな)

『私は果たせなかった夢を叶えたい。せっかく、こうして魂が同調する者が現れたのだ。今度こそ、憎い兄に邪魔されることなく彼女を手に入れたい』

「彼女とは……?」

 ゴードンはそう聞き返しながら、それが誰なのか分かっていた。まるで魂がリンクしてしまったかのように、エイドリアンの考えていることが分かる。
 そしてエイドリアンもゴードンの記憶を見て悟ったのだろう。彼女──ローズ・ネルソンがイライザ・ネルソンの生まれ変わりだということを。

『今度こそ、アシュのクソ野郎に邪魔させない! 手に入らないなら、いっそ殺してでも……!』

「ああ……そうだな」

 ゴードンは目を閉じて、深く息を吐いた。

(俺にとってもローズは必要だ)

 前世から続く因縁に決着をつけねば。
 もはや思考が混じり、どちらの意識なのか分からなくなりつつある。
 これまで以上にディランが憎くて仕方ないのは、ディランも聖者アシュの生まれ代わりだからだろう。

「ディランを殺してローズを手に入れる」
『アシュを殺してイライザを手に入れる』

 想像すると楽しくて仕方がない。堪えられない愉悦に、ゴードンは口の端をゆがめて笑った。



 その時、けたたましく玄関の鈴が鳴った。
 ──いつの間にか朝になっていたらしい。
 邸を訪ねてきたのは、モグリの治療師だった。彼は血に濡れたゴードンの姿を見て目を白黒させている。

「どっどうしたんですかぁ? まさか血を吐いて……?」

 青ざめている治療師の首をつかみ上げて、そのまま床に叩きつけた。ゴッと激しい音がして治療師は倒れた。

「ああ、なんという力だ……!」

 人並外れた力が出せるようになっている。気分が高揚して、ゴードンは高笑いを上げた。
 息も絶え絶えの治療師の髪をつかみ上げ、エイドリアンは命じる。

『俺の手下として動け』

 そう命じると、生気を失いかけていた治療師の目がぼんやりと光り、手足がビクビクと痙攣するように動いた。

「……ハイ! 仰セノママニ。エイドリアン様……!」

 治療師はゴードンの足元に這いつくばった。

(便利な力だ……)

 エイドリアンは他人を操り人形にできるのだ。
 ゴードンは伯爵領に戻り、貧民達を邸に集めて虐殺した。そのたびに力が湧いてくる。健康でいるためにも生贄は必要だった。
 決起するために治療師に領民を集めさせた。必要な時はエイドリアンの力を使った。今の王制に不満がある領主の元にも使者を送り、ゴードンの反乱に賛同する貴族達を探した。
 その甲斐あって今、邸の周囲には目から生気を失った領民達が集っていた。その数は千以上いるだろう。老若男女、皆ゴードンを──いや、エイドリアンに忠誠を誓う優秀な兵士達だ。

「もっとだ! 人を集めろ!」

 生贄さえ与えれば、エイドリアンはもっと多くの者を操れるようになる。

「これには国王軍も敵わないだろう」

(エイドリアンは聖者アシュの弟。つまり、我がコルケット伯爵家は王家の傍流だ)

 つまり王族であるディランとも遠い親戚ということになる。歴史上のほんのわずかな勝敗の差で、王になりきれなかった。だったら歴史を正しい方向に戻さねばならない。

「あの王太子ディランは逆賊だ! 今こそ挙兵して、我が伯爵家がこの国の実権を握る!」

 ゴードンの声に反応して、領民達がけたたましい怒声と共に一斉に「オオーッ!!」と拳を天に突き上げた。