今日は王太子の儀が行われる。
 ローズはいつもより豪奢な衣装を身にまとい、聖女候補達を連れて王宮にやってきた。玉座の間の扉が開かれると、すでに多くの人が集まっていた。国中の貴族が赤い絨毯を挟むようにして待ち構えているのだ。
 吹き抜けの天井には聖者アシュとその弟子達の絵が描かれている。

(ディラン……)

 すでに玉座の前に立っていたディランは、いつにも増して凛々しい出で立ちだった。ローズと目が合うと笑いかけてくれる。その笑みにドキリとした。

(しっかりしないと……!)

 今日はディランの大事な日なのだ。失敗する訳にはいかない。
 ひっそりと気合を入れて、ローズはしずしずと赤い絨毯の上を歩いて行く。
 国王はディランと並んで立っていた。ローズが彼らの前で膝をつくと、後ろについてきていた聖女候補達は一斉に膝をつく。そしてディランも身を屈めた。
 国王は玉座の後ろの壁一面に彫られた聖者アシュの彫像に目をやり、敬意を込めて一礼すると、従者から錫杖を受け取った。
 それを目の前で片膝をついているディランに手渡す。

「今日ここに、我イブリース国王イザーク・ビル・ケンイット・イブリースはディラン・マクノーラ・イブリースを聖者アシュの血を受け継ぐ正統な王位継承者と認め、ここに集う者達に王太子であると宣言する!」

 その瞬間、割れるような拍手と歓声が起きた。
 それが静まる頃にローズはそっと立ち上がり、緊張で震えているエステルから聖杯を受け取る。別の聖女候補から水差しも受け取り、ローズは入っていたワインを聖杯にそそぐ。
 そしてローズは聖句を唱えた。その瞬間、ワインが光を帯びる。居並ぶ聴衆達が「おお……」と、感嘆のため息を漏らした。
 ローズがその聖杯をディランに手渡すと、彼は恭しく受け取り、聖杯のワインを口にする。そして返却された聖杯をローズは高く掲げた。

「──これにて、王太子の儀は果たされました。父なる神と精霊の名のもとに、パルノア教の聖女ローズ・ネルソンが見届け人となりましょう。イブリース王国の新しい王太子ディラン・マクノーラ・イブリースの門出に祝杯を!」

 そうローズが言った直後、見物人達が「おおー!」という雄たけびと共に、手にあるゴブレットを一斉に持ち上げた。
 そのまま立太子のパーティが始まった。
 壁際に軽食やケーキが用意され、お酒で喉を潤しながら踊り笑う。国王とディランの周囲には「おめでとうございます!」と祝辞を述べる人々でにぎやかだった。ローズも信者達に囲まれて挨拶するので大忙しだったが──。

(あら? エステル達はどこに……?)

 ローズは視線を巡らしたが、聖女候補達の何人かは壁際に避難していた。数人の騎士に声をかけられて楽しそうに赤い顔をして会話している。
 もうローズ達が行う仕事はないし、神殿女官になるとパーティに参加する機会は少ないから、多少遊んでも大目に見るつもりだった。
 普段は聖女候補らしくキリッとした態度の彼女達が、見目麗しい男性を前に年相応の少女らしい態度を見せているのが微笑ましく、ローズはつい頬をほころばせる。
 その時、ダンス曲が流れ始めた。
 広間の中央から人が脇へと去り、踊りたい者だけが残る。ローズも端に移動しようとしたところで、目の前にディランが現れた。

「──ローズ、踊ってくれますか?」

 そうはにかむディランに、ローズは笑みを向ける。

「喜んで」
 
 ローズはディランの手を取り、二人で踊る人々の輪の中に入って行った。二人がフロアの中央に立つと、人々の関心のこもった視線が突き刺さってくる。
 音楽に合わせてゆっくりとステップを踏み始めた。
 ローズは踊りながら、さりげなくディランに身を寄せる。

「さっき、ワインは口にしなかったわよね?」

「ああ。言われた通りにしました。ローズも飲んでいませんよね?」

 こくりと、うなずく。少し飲んだ振りをして、手をつけていない聖杯は聖女候補に下げさせた。
 あのワインの中に、今朝エステルが何かの粉を混ぜたことは見張りから報告を受けていた。
 おそらくルシアの差し金だろう。素直に思惑に乗ってやる気はない。だからディランにも事前に伝えて、二人で飲んだ振りをしたのだ。
 今日はいつもよりローズの頬紅は濃くしてある。傍目には酔っているように見えるように。

「……どうかしら? 私、ちゃんとワインを飲んで酔っぱらっているように見える?」

「う~ん……少し赤みが足りないかもしれません」

 そう言ってから、ディランは耳元で囁いた。

「でも、俺には十分色っぽく見えていますよ」

「っ!?」

「それにしても、この聖衣はすごいですね。ドレスのようで、いつもの清廉な印象とは少し違いますが……とてもよく似合っています。今日のローズは女神のように美しいです」

「あ、ありがとう……。ディランもよく似合っているわ」

 ディランは「ふふっ」と笑って、

「今は酔っているみたいに顔が赤いです」

 そうからかうように言われて、ローズはついディランを睨みつけてしまった。

「……あなたって人は……」

「すみません。ちょっとからかいすぎましたね。では、真面目な話をします」

「え?」

 ローズは驚いて足を止めようとしたが、彼はそれを許さなかった。くるっとターンをさせられ、背中に手を当てられる。

「──今まで以上に慎重に行動しなければなりません。特に今夜は」

「…………」

「もしルシアに命を狙われているのなら、必ずお護りします。どんな手段を使っても。たとえ相手が誰であろうとも。……だから、囮になるなんて無茶な行動はやめていただきたいです」

「……!」

 その言葉に、ローズの心は大きく揺れた。釈明するように言う。

「でも、ルシアが何を企んでいるのか分からないもの。神殿に戻ってからだと危険は増えるわ。それより今日のうちに終わらせた方が良いと思うの」

 渋い顔をしているディランを、ローズは説得する。
 時間がなくて今朝手紙を渡して計画を伝えただけだったから、同意してもらえない可能性も考慮していた。ディランはローズが危険にさらされることを極端に嫌がるから。

「大丈夫。私は傷ついたとしても治癒できるし、そばにあなたがいてくれるなら不安はないわ。手伝ってくれるでしょう?」

「もちろん、あなたの望みなら何でも協力したいですが……今回ばかりは……」

「お願い」

 そう言って、ローズはディランに身をすり寄せた。彼が息を飲んだのが分かる。
 ディランは真っ赤な顔をして、ハァとため息を吐いて片手で顔を押さえた。

「……おねだりが本当にお上手ですね。……分かりました。ただし、危険なことはしないでください。約束ですよ?」

 そう念押しされて、ローズはほっと安堵した。

「ええ、もちろん」

「見張りはつけます。俺もそばにいますから、何かあったらすぐに駆け付けるので大声を出してください」

 ローズはうなずいた。
 これで作戦の第一段階はクリアだ。

「分かったわ。ありがとう……ディランがいてくれるから私も無茶できるのよ」

 ローズは安堵して心から微笑んだ。ディランが赤い顔をして「ぐぅ……」と、なぜか唇を噛んでいる。

「?」

「……いえ、なんでもありません。じゃあ、ダンスを再開しましょうか」

 そう言うと、ディランは音楽に合わせてステップを踏み始めた。
 ローズも再び彼の腕の中で踊り始める。

(あれ……?)

 絶妙なリードで、軽やかに足さばきをさせられている。
 ローズも数は多くないが付き合いでパーティに参加することもあったので、必要な時はいつもディランに練習に付き合ってもらっていた。この曲も二人で踊ったことはあったが、これほどディランは上手ではなかったはずだ。
 もともと運動神経が良いディランだったが、神殿にいた頃よりもずっと上達しているらしい。もうプロ級かもしれない、とローズは感じた。

「ディラン……いつの間に、こんなに上手くなったの?」

「……じつは、一緒に踊りたくて練習していたんです」

 そう照れくさそうに白状されて、ローズは目を丸くした後に微笑んだ。可愛いところもあるものだ。
 二人で踊れるのが楽しくて、久しぶりに声を上げて笑ってしまった。顔が上気しているのを感じる。

(──楽しい。できれば、これから何かが起こるなんて考えたくないけれど……)

 ローズは視界の端にエステルを見つけた。
 どこかから戻ってきたのだろう。いつも以上におどおどとしていて顔色も悪い。今にも倒れてしまいそうだ。
 彼女の隣にいるのは聖衣を着たピンク色の髪の娘だった。ベールを付けているから、表情までは窺えない。

(今日連れてきた神殿女官の中にピンク色の髪の少女はいなかったはず……)

「……主役が来たようですね」

 ディランの言葉にローズは唇を引き結んだ。

「……ええ、では始めましょうか」

 ローズがそう言うとタイミングよく曲が終わり、ディランと向かいあって礼をする。そしてローズは身をぐらつかせた。わざとだ。ディランがローズを受け止めてくれる。

「ローズ!」

「聖女様! 大丈夫ですかっ!?」

 エステルとピンク色の髪の少女が駆け寄ってきた。
 ローズは酔ってしまった振りをして扇で顔を扇いだ。

「……ちょっと酔ってしまったみたい。少し休憩室で休むわ」

「で、でしたら、私がお供しますッ!」

 エステルがそう名乗りを上げてローズの肩を支えた。ローズは申し訳なさげな表情でうなずき、ディランに軽く礼をする。余所行きの口調で。

「それでは、ディラン殿下。無作法をして申し訳ありませんが、しばし失礼させていただきます」

「ああ。気にせずゆっくり休んでください。俺もいつもより酔ってしまっているから、自室で休ませてもらいます」

 ディランと目くばせし合って離れた。