ゴードンは己が衰弱していくのを感じていた。
 もう一週間以上も体調が悪い。体が重く、ベッドから起き上がれないため、食事も自室で取っていた。部屋から出られないから、排泄も尿瓶や壺を使う。まるで重病人のような真似をせねばならず、それに苛々した。

(どうして、俺の体はいっこうに良くならないんだ!?))

 最初は深酒のせいか、それとも風邪でも引いたのかと思った。しかし日に日に体調は悪化していく。
 今日は朝から高熱と咳が止まらなかった。眠れずにベッドに目を閉じて横になっていた時──誰かが入室してくる気配を感じた。
 薄目で窺うと、そこにいたのは厳しい表情をした両親とルシアだった。
 父親のコルケット伯爵が大きくため息を落として言う。

「十六年前の症状とまったく同じだ……ローズに会わなくなって三週間が経つ。どうやら、病が再発してしまったようだ……」

(え? 再発……? 俺の病気が? 嘘だろ……)

 ゴードンはぱっちりと目を開けて、怯えた表情でコルケット伯爵に問う。

「お父様、冗談ですよね? 俺の病気は治っているんですよ。これは、ちょっと体調が悪いのが続いているだけで……」

 そう半身を起こして声を震わせるゴードンに、コルケット伯爵は首を振る。

「今朝は血を吐いたそうじゃないか。おそらくローズが治癒しなくなったから、抑えられていた病の症状が出てしまったのだろう。……お前の病気は治ったわけじゃなかったんだよ、ゴードン」

 頭から冷水を浴びせられたような気分だった。目の前が真っ暗になっていく。

「そ、そんな……」

 ゴードンは十歳の頃まで寝たきりの生活をしていた。
 ローズに出会ってから、その後の十六年間は健康そのものだったから、当時の苦痛を今まですっかり忘れてしまっていたのだ。
 医術書にも前例が書かれていない謎の病。内臓が弱く、たびたび血を吐き、骨はもろく転んだだけで砕ける。高熱、吐き気、倦怠感。食欲はなく手足はガリガリで、あばら骨が浮いている。十歳まで生きられたのは奇跡だと、余命宣告もされていた。
 その頃の自分を思い出して、ゴードンは悲鳴を上げた。

「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ……っ! 俺に限って、そんなことあるはずが……っ!」

(ローズと別れたせいで? 俺の健康はあの女のおかげだったって言うのか!?)

 母親がルシアに向かってヒステリックに怒鳴る。

「ルシア、あなたは神殿女官なんでしょう!? なら治癒できるでしょう! 早く僕ちゃんを治しなさい!!」

「は、はい。やってみます……!」

 母親に促されて、ルシアはゴードンの前に両手のひらを向けて祈りを捧げる。すると温かな光がルシアの手に生まれて、ゴードンの体に触れた。
 それを浴びると、ほんの少しだけ体調が良くなった気がする。しかし、その光を感じている間だけだ。手を離せば、すぐに気分が悪くなってしまう。

「な、なんで……!? まるでブラックホールみたい……癒しの力がまったく効かないなんて……こんなの初めて……」

 ルシアは呆然とそうつぶやく。
 母親がルシアの肩を乱暴につかんで揺さぶる。

「何を言っているの!? あなた、それでも神殿女官なの!? ベイビーちゃんがこんなに苦しんでいるのが分からないの!? 治しなさいよ、早く……っ!」

「やっています! やってるんですよ……っ! でも全然効かなくて……!」

「何言っているの!? あのローズでさえ、できていたのよ!? 最弱聖女って馬鹿にされていたあの女ができていたのに、どうして次期聖女のあなたにはできないのよ!? それでも聖女候補なの!?」

「そんな……っ! そ、そうだわ! きっと、ローズは何かズルをしていたに決まっています!」

 ルシアはそう弁明したが、母親の怒りは止まらない。

「何のためにこの邸に滞在させてあげていると思っているの!? タダ飯食らいが!!」

「わ、わたしは……ゴードン様の婚約者で……」

 ルシアは蒼白になりながら、そう小さく漏らす。
 母親は馬鹿にするように笑った。

「はあ? 何言っているのよ! 僕ちゃんの婚約者はローズよ! 私達は公爵家との婚約解消は認めないわ! それにいくら聖女候補とはいえ、あなたのような平民の子供を息子の婚約者にするわけがないでしょう!? あなたがローズの代わりになれるとでも思っていたの!?」

「そ、そんな……ゴードン様……ローズと結婚だなんて嘘ですよね? だって、あんな女より私の方が好きだって……」

 ルシアが視線で助けを求めてきたが、ゴードンはすっと目を逸らす。
 今はルシアに配慮する余裕はない。それに、こんなに彼女が役立たずだとは想定外で、騙されたような気分になっていた。

(クソッ……未来で聖女になっていたくせに、ルシアにこんなに聖力がないとは……)

 聖女の聖力は二十歳がピークであることはよく知られている。ルシアはまだ十二歳なのだから仕方ない面もあるのだろう。けれど、ローズは八歳の頃からゴードンの病を治療していたのだ。それなのに、何もできないルシアに苛立ちが募る。
 ルシアは小さく震えていたが、その場の空気に耐えられず部屋を飛び出して行った。
 コルケット伯爵が吐き捨てるように言う。

「ローズから手紙の返事は来てないのか!? 私からも神殿に使いを送っているが、中に通してももらえないんだ……! 伯爵家へのこんな無礼な振る舞いが許されると思っているのか……!?」

「お……お父様、ゴホッゴホッ……!」

 ゴードンは声を出そうとして、大きく咳込んでしまう。
 母親が慌てて背中を撫でてくれた。

「大丈夫!? ベイビーちゃん」

「あ、ああ……うっ、ゴホッゴホッ」

「婚約者がこんなに困っているのに、どうしてあの女は僕ちゃんを放っておけるの!? 聖女のくせに人の心がないのかしら!? 抗議文を出してやるわ!」

 母親は憤りを隠せないでいる。
 しばらく思案していた様子のコルケット伯爵だったが、ふと何かを思いついたらしく表情を明るくした。

「そうだ……! 神殿には入れなくても、ローズが外出している時に接触を図れば良い。聖女が救貧院に奉仕活動に行っているのは有名だし、他にも貧民街への炊き出しも定期的に行っている。王都内外の神殿を回ったり、信者達との会合などもしているから……どこかのタイミングを狙えば会えるはずだ」

 聖女はその立場上、信者の有力貴族だけでなく、相手が奴隷であっても分け隔てなく救いの手を差し伸べる。それだけ市民にも接触機会があるのだ。そしてパルノア教の信者には、聖女の行動予定の一部は公開されている。

「そ、そうね! それが良いわ……!」

 母親は首が取れそうなほど大きくうなずく。

「お前は聖女の公開予定を知っているか? 知らないなら調べなければ……」

「ええっと……そういえば、他の信者の方から、毎週安息日に神殿が貧民街で炊き出しをしているって聞いたことあるわ。聖女自ら貧民に施しをすると……」

「安息日って今日じゃないか! 貧民街……イシュタークだな。では我々で向かおう。ゴードンは休んでいてくれ」

 そう話を進める両親を、ゴードンは制する。

「ま、待って……ゴホッ……う、ぐッ……待ってくれ……。俺も、一緒に行く」

「でっでも……ベイビーちゃんは外に出かけられるような体調じゃないわ! ベッドで休んでいた方が……」

 心配そうな表情でゴードンをベッドに寝かせようとする母親。
 コルケット伯爵は渋い顔をしつつも唸る。

「そうだな。ゴードンも連れて行こう」

「あなた……!」

 妻の非難の声に、コルケット伯爵は首を振る。

「我々が二人で行っても適当にあしらわれてしまうかもしれない。だが、ローズもさすがに今のゴードンを見れば哀れみも覚えるだろう。……大勢の前で『助けてくれ』と訴えれば、聖女は病人を見過ごせない。そんなことをすれば聖女の威信に関わるからな」

「な、なるほど。確かにそうですわね! あの生意気な女も、そうすれば僕ちゃんを治療するために邸にやってくるはず……! そしたら、その時によく叱ってやりましょう。これまでの無礼な態度を反省させてやるのよ!」

 母親は嬉々とした表情になる。
 パルノア教には『助けを求める者は救うべき』という信条がある。

(そうだ! いくら俺を拒否しようと、ローズが聖女である以上は俺から逃げられないんだ……!)

 ゴードンは活路を見出して、固く拳を握りしめた。