「芹香がいて、東條さんがいて……毎日楽しく過ごしているんだもの。これ以上の幸せってないと思うわ」


 過去を思い返しながら清香が言う。それは紛うことなき、清香の本心だった。


「…………私は違うと思う」


 芹香は静かに瞳を開けると、清香をまじまじと見つめた。いつになく真剣な表情だ。在りし日の中宮の姿が芹香に重なる。ドキリと清香の心臓が高鳴った。


「確かに今だって幸せかもしれない。でも、すぐ目の前にもっと幸せになれる道があるのに、そこに手を伸ばさないのは勿体ないって……違うと私は思う」


 芹香の言葉には妙な重みがあった。
 覚えておらずとも、魂には前世の記憶が刻まれているのだろうか。手を伸ばしたくとも伸ばせなかった、そんな念があるのかもしれない。それは清香の心を動揺させるには十分だった。


「とにかく、私の気持ちは伝えたから!これから夏休みだし、東條君を家に呼んだりするつもりだし!その時は崇臣さん、一緒なんだからね!」


 そう言って芹香は立ち上がると、いそいそと清香の部屋から出て行った。パタンと音を立ててドアが閉まる。清香の口から思わずため息が漏れた。


(あ~~あ)


 清香は頭を抱えながら、窓の外を眺めた。今夜の月は紅く、地上に近い場所で輝いてみえる。
 清香は自身の手のひらをそっと伸ばし――――それからすぐに引っ込めた。


「幸せに手を伸ばす……ね」


 一人きりの部屋に清香の声が木霊する。


(ないなぁ)


 ため息を一つ。小さく笑いながら首を横に振ると、清香は再び机へと向かったのだった。