私、坂本望愛(さかもとのあ)は26歳。
都内の大学を卒業してから4年間沖縄でツアーガイドの仕事をして、この春実家のある東京に戻って来た。
体を動かすことが好きで、水泳ではインターハイにも出場。子供の頃は本気でオリンピックに出たいと思っていたけれど、高校に入る前には自分の限界に気が付いた。
多少泳ぐのが得意でも世間にはもっと凄い人がたくさんいて、そういう人は生活のすべてをスポーツに捧げている。遊ぶことも、食べることも練習のために我慢して、何もかもを掛けるように生きなければ、国際大会へ出られるレベルにはならないと知ってしまった。

「重さんにはよろしく言ってあるから、くれぐれも粗相のないようにな」
「はいはい。父さんの顔を潰すようなことはしません」

平凡などちらかというと体力派の私がなぜ一条プリンスホテルに就職できたのか、それはすべて父さんの友人である重さんのお陰。
重さんは父さんの囲碁仲間で、すべに70歳を超えたおじいさま。
私も何度かお目にかかったことがあるけれど、品のいい紳士って印象の方だ。
いつも穏やかで、優しくて、気さくな人柄から父さんとも気が合って、付き合いも長いらしい。
つい先日まで、私にとって重さんはあくまでも父さんのいい友人で、子供の頃からかわいがってもらったおじいさまだった。まさかその人が、一条コンツェルンの総帥だとは想像もしていなかった。

「ほら望愛、時間大丈夫?」
鏡の前で窮屈なスーツ姿を見つめる私に、母さんが声をかけてきた。

あ、そうだった。
「行ってきまーす」
私は母さん手作りのお弁当を片手に、玄関を駆け出した。