新そよ風に乗って ③ 〜幻影〜

「これだけ物的証拠があるということは、労災申請しないといけないな」
それぞれの席の前に置かれていた書類に目を通しながら、人事部長は総務部長に視線を移すとそう言った。
「では、矢島さん。ご苦労様でした。もう、結構ですよ」
「あっ、はい。あ、ありがとうございました」
よく分からないままだったが、緊張感からとにかく今は一刻も早く会議室を出ようと思い、席を立った。
すると、高橋さんが私の腕をツンツンと押し、持っていた診断書を渡すよう手を出した。
「あっ。す、すみません」
慌てて、明良さんに書いてもらった診断書を高橋さんに渡して、ひと足先に私だけ会議室を出た。
いったい、何だったんだろう? 労災がどうのって言ってたけれど……別に、労災じゃなくていいのにな。
そんなことを考えながら、会議室を出てエレベーターホールに向かうと、前から会いたくない人がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「おう、矢島。どうした? もう、人事に異動になったのか?」
やっぱり、遠藤主任は苦手だな。
「そ、そんなんじゃないですよ。すみません。急いでるので、失礼します」
あまり遠藤主任とは関わりたくないので、挨拶だけしてそのまま通り過ぎようとした。
「痛っ……」
すると、いきなり遠藤主任が私の腕を掴んで、エレベーターホール脇の階段に通じるドアを開けて踊り場に私を連れ出した。
「ちょ、ちょっと、遠藤主任。離して下さい」
しかし、遠藤主任は無視して踊り場の壁に私を押しつけると、両肩の脇に手を突いて、私は身動きが取れないようにされてしまった。
「すみません。あの、急いでるので」
「あのさ、今日の帰り、飲みに行かない?」
エッ……。
飲みに行くなんて、絶対嫌だ。
「あの……。今、足を怪我しているので、飲めないんです。すみません、それじゃ……」
遠藤主任から何とか逃れようとしたけれど、まだ私の両脇に手をついたまま解放してくれない。
突然、遠藤主任が私の顎を掴んだ。
嫌だ。やめて……。
「や、やめて下さい」
「じゃあ、今夜、飲みに行く?」
どうしよう。このままじゃ……。
すると、いきなり階段のドアが開いて、その音に驚いて遠藤主任も私もドアの方を見た。
「た、高橋さん」
高橋さんは、ドアを開けてこの光景を見た途端、つかつかと歩いて来て私の前に立つと、咄嗟に離れた遠藤主任と向かい合った。