思いっきり、高橋さんと耳元で大きな声で呼んでみると、少しだけ反応があったので、もう一度、高橋さんの名前を耳元で大きな声で呼びながら脇腹を叩いてみた。
「ミサ……」
「えっ?」
「ミサ……」
耳元でそう囁くと、高橋さんは、ギュッと私を抱きしめた。
嘘……。
今、確かに高橋さんは、ミサと言った。
ミサって、誰?
もしかして、誰かと勘違いしてる?
な、何?
目を瞑ったまま、高橋さんの顔が目の前に迫ってきている。
そして、高橋さんの唇が頬を外側からなぞるようにして、私の唇に段々と近づいてきていた。
「ミサ……もう少しだけ……お願い。寝かせて」
「た、高橋さん。高……」
それは、あっという間の出来事だった。
嘘。
何? 今の……。
何が、起こってるの?
今……私、キスされてる?
高橋さんに抱きしめられたまま、キスされてる。
しかも、深いキス。
嘘でしょう?
何? 何故?
今、自分の置かれた状況がよく理解出来ていない。
あまりにも突然で、避けることが出来なかった。
い、嫌だ。こんな……こんなキス。
「やめて!」
その瞬間、高橋さんを突き飛ばしていた。
「いってぇ……」
高橋さんは、私が突き飛ばした拍子にソファーから落ちて、テーブルの角に肩を強打したようだった。
「何なんだ。いきなり、お前……」
肩をさすりながら高橋さんが、立ち上がった私を見上げた。
高橋さんと目が合った途端、言葉も出ず、ただジッと見つめていたが、涙が込み上げてくるのが分かったので、咄嗟にバッグを掴んで高橋さんに背中を向けた。
「どうした?」
その様子に気づいているのか、高橋さんが呼び止めた。
話せない……。話したくない。此処に……居たくない。
この部屋を出ることしか頭に浮かばず、呼び止める高橋さんを振り切って玄関へと走り、慌てて靴を履いた。
「お前。ちょっと、待て」
聞こえていた高橋さんの声に振り向くこともなく、玄関を飛び出した。
来なければ良かった。
タクシーを降りて、あのまま帰れば良かった。
高橋さんの部屋に、入らなければ良かった。
エレベーターの中で、後悔の言葉だけが頭を過ぎる。
エレベーター内の奥の鏡を見ると、哀しい自分の泣き顔が映っていた。
1階でエレベーターを降りて、車路横の歩道を歩き出したが、途中から一歩ずつ早足になり、その早足が小走りになって、ついには走り出していた。
早く、少しでも早く、この場所から離れたい。此処には、もう二度と来たくない。
高橋さんのマンションから遠ざかれば、さっき起きた出来事も忘れられるかもしれないと思っていた。でも本当は、忘れることなんて出来ないのに。