新そよ風に乗って ③ 〜幻影〜

そう言って、高橋さんはそっと私の背中を押すと、マンションに向かって並んでゆっくり歩き出した。
きっと、私の歩調に合わせてくれているのだろう。本当に、ゆっくり歩いてくれている。何も会話はなかったけれど、隣に高橋さんが居てくれるだけで、凄く安心していた。
「ありがとうございました」
やっと少し落ち着いて、高橋さんに挨拶ができた。
「部屋の前まで行くから」
高橋さん……。
高橋さんの車で送ってもらっている時も、いつもだったらマンションの前で別れるのだけれど、高橋さんはマンションのエレベーターの前まで一緒に付いてきてくれた。
「すみません。本当に、ありがとうございました」
部屋の前で高橋さんにお辞儀をすると、高橋さんが黙って何かを差し出した。
「あっ……」
「居酒屋の、椅子の上に落ちてた」
「す、すみません。ありがとうございます」
高橋さんが差し出したものは、IDカードだった。
恐らく、居酒屋でお財布を出した時に、落としてしまったのかもしれない。
もしかして?
「高橋さん。もしかして、わざわざ届けに……」
「明日の朝、カードがなかったら会社に入れないだろう?」
ああ、高橋さん。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」
あの時、私が勝手に先に帰ってこなければ……。
勝手に先に帰ってきてしまった挙げ句、IDカードを居酒屋に落として、高橋さんがわざわざ届けに来てくれた。
私が勝手な行動をしなければ、IDカードを落とすことも、あんな怖い思いもしなくて済んだかもしれない。
自分の身勝手のせいで、こんなことに……。
「高橋さん。ごめん……なさい」
「泣くな」
「ごめ……んな……」
スッと、高橋さんの左手が私の背中に回ってきて、広い胸の中に引き寄せられていた。
「泣かれると、辛いと言っただろう?」
「ごめんな……さい」
広い胸の中で、高橋さんの声の響きが直接肌に感じられる。
「怖かったな。もう大丈夫だから、安心しろ。お前は、何も悪くない」
高橋さんの優しい低い声が、体中を凍り付かせていた恐怖心を少しずつ溶かしてくれているようだった。
暫くして、落ち着きを取り戻した私から高橋さんの体が離れると、左手の人差し指で高橋さんがドアを指さした。
慌ててドアを見たが、いつもと何も変わらないので不思議に思って、また直ぐに高橋さんを見た。
「フッ……。ドアの鍵、開けて」
「あっ、は、はい」
慌ててバッグから部屋の鍵を出して鍵を開けると、後ろから高橋さんが開きかけたドアを思いっきり開けた。
「入って」