新そよ風に乗って ③ 〜幻影〜

「無論、他人の良いところを手本にしたり、見習うことは大切だ。しかし、手本というのは読んで字の如く、教科書ではない。夏目さんや折原を見て、ああいう所は良いな、偉いなと自分自身で感じ、それを自分でも習得したい、模範にしたいと願うのはいい。だが、夏目さんや折原と同じことをしようと真似をしただけでは、何も生きてこない。何故なら、お前は、何をしたところで、お前だからだ。これは、代え難い事実。小手先だけの人間には、なって欲しくない。俺も他人のことは言えた義理ではないが、案外、自分のことは分からなくても、他人のことはよく分かったりするのが常だからな。人の良いところを見習って、吸収して、手本や模範にするのはいい。だが、あくまでお前は、矢島陽子という1個の人間だ。これだけは、誰も代理はできない」
「高橋さん」
「勿論、お前には、お前の良さがある。お前は、お前らしくあれ。その良さを最大限に活かして、他人の良いところを見習えばいい。焦ることはない。だが、決して自分の個を打ち消してまで真似することだけは、考えるなよ?」
「はい……」
「そうそう折原と同じような人間が、もう1人居られたんじゃ、俺も堪らないからな」
高橋さん。
「さて……。そろそろ、帰るか」
どのくらい、時間が経っているのかも分からない。けれど、もう帰らなければいけないの?と思えるほど、名残惜しい感じだった。それに、まだ高橋さんに謝れていない。
すると、高橋さんが塀の上から飛び降りた。
うっ。
私、この足じゃ……飛び降りられない。
でも、何とかして、そっと降りれば大丈夫かな?
少しだけ、お尻を前にずらして恐る恐る下を覗いた。
「お前。まさか、飛び降りるなよ」
エッ……。
目の前に、高橋さんが立った。
これじゃ、高橋さんに降ろしてもらうことになってしまう。
どうしよう……。
恥ずかしい気持ちでいっぱいになって、目の前に立っている高橋さんを、塀の上に座りながらそっと見上げた。
うわっ。
すると高橋さんも、ジッと私を見ていた。
あっ。今が、チャンスかもしれない。
謝らなきゃ。
「高橋さん。私……高橋さんに謝らなければならなくて……」
「何がだ?」
高橋さんは、穏やかな口調で問い返してくれたが、視線を外して高橋さんのネクタイの先端の尖った部分を見つめながら口を開いた。
「あの、労災の件で私……」
しかし、言い掛けた途端、いろいろなことが思い出されて涙が溢れそうになってきて、堪えるために今度は上を見たくて。わざと高橋さんを見上げた。
「私……何も知らなくて……。高橋さんに酷いことをたくさん言ってしまって……高橋さん。ごめんなさい」
「本当に、お前は……」
「ごめんなさい」