新そよ風に乗って ③ 〜幻影〜

「あっ。で、でも……。あ、あの……本当に困ります。高橋さん」
「遠慮しなくていい」
「え、遠慮なんて、そんな……」
「ゆっくりでいいから、支度して」
「でも……」
「頼むから、俺の言うことを聞け」
高橋さん……。
立っている高橋さんに、真剣な表情で見据えられてしまった。
有無を言わせないその眼力は、決して高圧的ではなく、自惚れかもしれないが本当に私のことを心配してくれている瞳だった。
けれど、やっぱり申し訳なくて必死に大丈夫だと訴えたが、そんな訴えも虚しく、着替えを用意させられて……。
週末の金曜日の夜、高橋さんの家に泊まることになってしまった。
高橋さんのマンションに着いて、部屋に入った。
いつ以来だろう……。
明良さんと仁さんと一緒に食事をした時以来だから……。まだ私が新入社員の時だった。
もう、あれから2年以上経っているんだ。
部屋の中を見渡すと、すべて綺麗に整頓されていて、あの頃とまったく部屋の感じも変わっていない。
ソファーに座りながら、高橋さんが部屋に入って着替えている間、そんなことを思い出していた。
あの頃から、何も進歩していない。仕事には少し慣れたけれど、こうしてまた高橋さんに迷惑ばかりかけている。
高橋さんは、会社のためにどんどん役に立てることをしている。それなのに……。
新入社員の頃に、この部屋で食事をしたことを思い出しながら、ふとキッチンのカウンター越しに見える食器棚に並んでいるグラスを見て、今の自分と同じだと思えた。
何も変わらず、此処に居るだけ。
私は、この2年間、いったい何をしていたんだろう。
懐かしい高橋さんの部屋に入って、何も進歩していない自分に気づき、やがてその感情は心の中から湧き上がり、涙となって溢れ出していた。
とめどもなく涙が溢れ、グレーのパンツの膝の部分に小さなチャコールグレーのドット柄を無数に作り出し、いつしかそれは幾重にも重なって、1つの大きな黒いドット柄へと変化していった。
「何か、飲むか?」
高橋さんが着替え終わって、部屋から出てきてしまった。
そして、私を見るなり一瞬立ち止まったが、右手に持っていた煙草の箱をテーブルの上に軽く放り投げながら、こちらに向かって歩いてきた。