「藤咲さん。こっち」

 終業後、約束通りプラネタリウムバーに行き怜士を探していると、カウンターに座っていた怜士が手を上げて美玲を呼んだ。

「遅くなってすみません」

 時刻は七時。できれば定時に帰ろうと思っていたが、急な仕事が入って少し遅れてしまった。
「大丈夫だよ。お疲れ様。なにか急な仕事入った?」
「学校から支払い項目の件で相談があって」
「項目で?」
「新しくウサギを買うつもりらしいんですけど」
「あぁ……備品か消耗品費かって? 学校も痛いとこ聞いてくるなぁ」

 遠い目をする怜士に、美玲も苦笑しつつ頷いた。

 定時直前に鳴った電話は区内の学校事務員からで、新学期にウサギを買ったのでその支払いをしたいが、支払い項目がわからないので伝票がきれないとのことだった。

「盲点でした……。電話口で私も一緒に悩んじゃいました」

 美玲はため息をつく。これまでの伝票や他区の見本も見たが、まだ答えは見つけられていない。

(というかこれ、多分答えなんてないよね……)

「あれ、永遠の課題だよね。一か八か、予算の多い方から出すとかどう?」
「……監査でチェックしないですか?」
「まぁ、チェックしたところで、こうすればいいってアドバイスできないしね。みんな流してくれるんじゃない? あぁ、でも、面倒な区議とかは突っ込んできそうだね」

 他人事だとばかりに、怜士は肩を揺らす。

「朝霞さんて、案外適当ですよね……」

 美玲の呟きに、怜士はさらに肩を揺らした。

「冗談冗談。週が明けたら、これまでの伝票確認してみるよ。みんなには内緒ね」

 怜士はいたずらっ子のように、肩をすくめて笑った。そんな何気ない仕草にすら艶を感じる。美玲は頬が熱くなるのを感じて、パッと目を逸らした。

「それより、山本係長はどう?」
「あ……はい。いつも通りですね」

 美玲は苦笑しつつ、メニューに視線を落とした。

(あのあと、早速朝霞さんが頼んだ研修資料を私に流してきたとは、さすがに言えない)

「……そう」

 怜士はちらりと美玲を見ると、グラスを煽る。

 それからしばらく他愛のない話をしていると、あっという間にときが経ち――。

「……今夜このあとは?」
「え? か……帰ります……けど」
「昨日のホテル、予約してあるんだけど」

 そろそろ帰ろうかという頃、唐突に怜士の口から飛び出した言葉。
 途端に鼓動が忙しなく鳴り出した。

「あ、あの私……」

 頬杖をついた怜士が美玲を見る。その瞳にはうっすらと熱が宿っている。

 その熱を移すように、怜士は膝に置かれた美玲の手に自分の手を絡め、耳元に甘い言葉を囁いてくる。

「今日は金曜日だね? 明日着る服なら、気にしなくてもいい」
「……でも」

(どういうこと? あのことは忘れようって……それなのに、また?)
 
「か、からかってますか……?」
「さぁ。どう思う?」
「……」
「君が拒むなら無理強いはしないよ。君はどうしたい?」

(私は……)

 怜士からまっすぐに誘われて、素直に弾む自分の心が憎い。
 このままこの手に流されてしまいたいと思っている自分に気付き、心がずんと重くなる。

 美玲は目を伏せ、小さく答えた。

「私は……恋人がいますから」

 震える声で断ると、怜士はあっさりとそれを受け入れた。
 
「そう。じゃあそろそろ帰ろうか」

 立ち上がり、会計を済ませるとバーを出ようとする。

(全然気にしてない……やっぱり朝霞さんの冗談だったんだ。私ばっかりドキドキしてバカみたい)

 美玲の気持ちがさらに重く沈んでいく。

「送るよ、藤咲さん」

 美玲は重い足を動かし、怜士の後に続いた。怜士の車に乗り込み、自宅までの道を案内する。
 ほどなくして、美玲の自宅に到着した。

「今日は無理に付き合わせて悪かったね」
「……」

 美玲はシートベルトを外せないまま、黙り込む。

「藤咲さん?」

 怜士が美玲の顔を覗き込んだ。鼻先の触れそうな距離で、二人の視線が交差する。その距離にハッとして美玲が口を開こうとすると、怜士はそれを拒むように美玲の唇を塞いだ。

 それはあまりにも突然で、けれど頭の中がとろけてしまいそうなほどに甘くて。
 美玲はそのまま身を委ねた。

 二人の口付けはどんどん深くなっていく。心ごと求めてくるような怜士のキスに、美玲は身も心も絆されていった。

「男の前でそんな顔するなんて、ダメでしょ」
「……すみません」

 その妖艶な表情に、あの夜がフラッシュバックする。