臣が帰ると、美玲は部屋に怜士を通し、珈琲を淹れる。

「……どうぞ」
「ありがとう」

 しかし怜士は珈琲を見つめるばかりで、口をつけようとはしない。
 そればかりか、話にきたと言ったのに、口を開こうともしなかった。

「あの……話って?」

 美玲が思い切って訊ねると、
「……婚約者の話」

 その言葉に、こめかみがぴくりと痙攣した。

「あの……大丈夫です。口止めなんてしなくても、朝霞さんと泊まったこととか誰にも言ったりしませんから」
「……そうじゃない」
「え?」
「たしかに三年前見合いして、婚約はした。でも、それきりだ」
「……それきりって?」
「彼女、亡くなったんだ。婚約してすぐ、事故でね。だから婚約はしたけど解消もなにもない。彼女はもうこの世にはいないんだからね」

 そう話す怜士の瞳は寂しげに揺れ、心做しかいつもより濡れている気がした。美玲は自分の誤解に気付き、慌てて頭を下げた。

「すみませんでした……そうとも知らずに、私……」
「俺も謝る」
「え?」
「君に恋人がいるって知っていて、ホテルに連れ込んだこと」
「つっ……」
 美玲はぼっと顔を赤くして恥じらった。
「君が変な男に捕まってるって知って、どうしても気になったんだ。君の教育係になったあの日から、ずっと好きだったから」
「!」

 美玲は目を丸くしたまま固まった。

(……え……え!? あ、朝霞さんが、私を!?)
 心の中はパニック状態だ。
 
「でも俺は上司だ。少なからず君に慕われてることにも気付いてた。だからこそ俺から告白するのはフェアじゃないし……。ずっと諦めようとしてたんだけど」

(上司だから……?)

「で、でも私、いつも朝霞さんに迷惑かけてばかりで」
「流された見合いだったとはいえ、これから寄り添うと決めた人が急にいなくなって、これでも落ち込んでいたんだ」
「そうですよね……」

 美玲は目を伏せた。

「でも、君は本当退屈をくれなくてね。毎日新鮮で、悲しむ暇もなかったよ。ふふっ……支払い印の日付を変えずに押してたりね」
「うっ……あれは本当に、穴があったら入りたかったです」

(消印を朝霞さんが押して、新しく私が支払い日の印を徹夜して押したっけ……)

「がむしゃらでまっすぐで、ちょっと言うとすぐ泣きそうになるのに、必死にメモして。自分で職務内容をまとめたファイルを持ち帰って勉強して……見てるこっちが心配になるくらい背負ってるから、異動が決まったときはハラハラしたよ」
「本当ご迷惑ばかり……」

(朝霞さんは、私のせいでかなり寿命が縮んだのではないだろうか)

「いや。俺は君に救われてたんだよ。俺だけじゃない。周りもみんな、君を見る目は優しかった。だからこそ、君はもっと周りを頼ってよかったんだ。社会人だから一人で頑張らなきゃいけないなんてことはないんだよ?」
「……はい」

 美玲はずっと怜士をよく分からない人だと思っていた。肝心な本音はいつもうやむやにしてしまうし、笑顔の裏でなにを考えているのかなんて、これまで一度だって理解できたことはない。
 けれど本当は、誰よりも部下思いな優しい人だった。
 
「とはいえ……君があんなに策士だとはね。まんまとはめられたな」
「は、はめてませんよ!」

(むしろはめられてたのはこっちです……)
 
「好きな女の子にあんなふうに言われたら、男は期待するし抑えられなくなる。狙ったんじゃないなら嘆かわしいことこの上ないよ。心配で、今後外では飲ませられない」
「……あ、あの朝霞さん。さっきから、その」

 信じられない言葉が聞こえてきた気がして、美玲は怜士を見上げた。当の怜士は柔らかな笑みを浮かべて、美玲を見下ろしている。

「ん?」
「す……好きって」
(聞き間違い……?)
「うん。好きだよ」
 朝霞はひどく優しい顔で微笑んでいる。
「ほ、本当に? 聞き間違いじゃない……?」
「うん。ちゃんと言ったよ、好きだって」
 目の奥がじんわりと熱くなる。

「う、嘘です……」
「どうして?」

 怜士は苦笑交じりに目を見張る。

「だって、私に恋人がいてもべつに意識してるようには思えなかったし……」
「……最初は見守るつもりだったからね。君とは歳も離れてるし、どうにかなろうなんて思ってなかった。でもあの日……昼間山木さんに会って、立ち話していたときに同期の君の話が出てね。君の彼がろくでもない男のようだったから、心配になったんだよ。それで様子を見に行ったら、案の定君は泣きながら一人で仕事をしてるんだから。話を聞けば聞くほど、君を彼のいる家に帰したくなくて……我慢ができなくなった」

 初めて聞いた怜士の本音に、涙が溢れ出す。そんな美玲を、怜士はそっと抱き締めた。美玲は怜士の服を強く掴み、思い切って訊ねる。
 
「じゃあ……後悔してないんですか?」
「後悔?」
「あの日、わ、私を抱いたこと……」

 恥ずかしさから目を逸らす。頭の上でくすりと笑う声が聞こえ、美玲はおずおずと顔を上げた。
 
「してない……といったら嘘になるかな。実際君はそれで散々悩んだみたいだからね……。でも、俺自身は後悔なんて一ミリもしてないよ」

(ずっと後悔してるんだと思ってた。私はただの部下で、女ではないんだって……)

「あの日……君を送ったあと戻っただろう?」
「もしかして、ボールペンのことですか?」
「あれ、実は前に君が監査事務局に落としていった忘れ物。彼氏になにかされてないか心配でね。ついでにそれで少しは気づいてもらえるかと思ったんだけど、まったくの空振りだったね。君に駆け引きは通用しないようだ」

 肩をすくめ、怜士がちらりと横目で美玲を見る。その瞬間、美玲の全身が一気に火照った。

「……たしかに落とした記憶なんてなかったから、不思議には思ったんですけど」
「ふふっ。でもまぁ、それも君らしくていい」
「バカにしてます?」
「どうかな」

 怜士が美玲の髪を梳き、視線を合わせる。美玲の目の前には、ずっと待ち望んだ朝霞なひどく優しい瞳があった。

「随分悩ませたね」
「……そうです。もう散々です」
「お。少し強くなったかな?」
 怜士はイタズラな笑みを浮かべ、美玲の顎を優しく掬う。
 
「朝霞さんのせいです」
「俺が君を変えたの?」
「……そうです。だから、責任取ってください」
「うん」
「……好きです。私、朝霞さんのこと」

(もう誤魔化されないように……言わなきゃ)

「好きです。朝霞さんのことが、ずっとずっと……」
「わかったわかった。もうおなかいっぱいだよ」
 
 美玲の想いに、怜士は笑いながら言った。そのまま美玲をその腕の中に強く閉じ込める。

「君は素直なのか意地っ張りなのか……わからないな」

 美玲はぎゅっと抱きつく。

「わからないのは、朝霞さんの方です」
「俺たちはお互い嘘で着飾ってるからね」
「……朝霞さんは嘘だらけです」
「そんなこと言うなら君だって。君は控えめで優しい顔をした悪魔だよ」
「……せめて小悪魔にしてください」

(強く言い返せない……けど、負けない)

「でも、そんな嘘つきの私を好きなんですよね」
「……これはこれは。思ってた以上に性格悪くなったね」
 怜士は目を瞠る。しかしすぐに、美玲を好戦的な瞳で見返した。
「おかげさまで」
「まったく、敵わないな。頼むから、そんな顔するのは俺の前でだけにしてね」

 怜士が耳元で囁く。焦がれ続けたその掠れた声に、美玲の全身が支配されていく。

 それはまるで蜘蛛の糸のような甘い罠。じわりじわりと獲物を追い詰めていく。

「朝霞さんは、蜘蛛みたいです」
「えぇ……例えがいやなんだけど。それなら君は蜘蛛に捕まった憐れな蝶?」
「憐れじゃないです。だって、自分で飛び込んだから」
 怜士が小さく笑う。
「それならもう離さないから……死ぬまで俺に愛されて」
「……私だって、もう離れませんから」
「宣戦布告か。いいね」

 怜士がキスを落とす。それはゆっくりと深くなっていく。二人は時計の音の響く無機質な空間の中で、時間も忘れていつまでも抱き合い続けた。