三年目の職員研修は、泊まりがけの研修だ。一日目の研修が終わり、ホテルの部屋でぼんやりと携帯を見つめていると、不意に手の中のそれが振動した。

「わっ……」

 見ると、表示されているのは『朝霞さん』の文字。一瞬開くか迷った美玲だったが、結局気になりメッセージを開く。

『研修お疲れ様です。先程無事会計課と監査事務局の合同研修が終わりました。山本係長は今回の件で結構懲りたみたいだよ。これからは君も無茶な頼みは受けないように。断る勇気を持つこと。また研修明けに飲みに行こう。』

 その連絡を心から待ち望んでいたはずなのに、そのメッセージが脳内で怜士の声で再生されると、途端に心に靄がかかった。

(婚約してるって、本当なんですか……朝霞さん)

「……なんて、恋人がいる私が聞けることじゃないよね」

(むしろ私に恋人がいるからこそ、体だけの関係を求めたのかもしれないし……)

「美玲? どうしたの?」
「……なんでもない。お風呂行こ」
「そうねー。ここ、源泉かけ流しだってよ。美肌効果に期待ね」

 美玲は脳内から怜士の顔を振り払うように、キャリーバッグの荷物を広げた。


 露天風呂に浸かりながら、美玲は暗い空にぽっかりと浮かんだ月を見上げる。

(私は……朝霞さんとどうなりたいんだろう)

「ねぇ、美玲」
「…………」
「美玲ってば!」

 バシャッと勢いよくお湯をかけられ、美玲は我に返った。
 
「にゃっ!? ご、ごめん。なに?」
「……まったくぼーっとしちゃって。悩みがあるなら聞くよ。この間、学からいろいろあったって聞いたし」
「……芹香」
 じわりと涙が滲む。芹香の優しい顔に、美玲の瞳からは堰を切ったように涙が溢れ出した。

「よしよし」
 美玲は泣き止むと、芹香に怜士や臣とのことを話した。

「……そっか。そうとは知らず、ごめん、私あんな無神経なこと……」

 正直に怜士を想っていることを伝えると、芹香は眉を下げて謝ってきた。

「いいの。むしろ助かったよ。不倫はさすがにまずいもんね」
「……朝霞さんのこと、諦められるの?」
「わかんない……」
 曖昧に首を振る美玲に、芹香は真剣な顔で言った。
「もしまだ引き返せるところにいるなら、私は今のうちに諦めた方がいいと思う」
「……うん」

(諦めるのはきっと、難しいことじゃない。今までの関係に戻るだけ……上司と部下に戻るだけ……)

 たとえ誰に相談しても、きっと芹香と同じことを言うだろう。それなのに、美玲はどうしてもその模範的な答えを選べない。

 心が悲鳴を上げるのだ。怜士の心が欲しいと泣くのだ。
 黙り込んだ美玲を見つめ、芹香がふっと笑う。

「……でも、どうしても好きで諦められなくて、朝霞さんの彼女になりたいなら、ちゃんと話し合いなよ。いい? このままうやむやな関係を続けるのはダメ。美玲はそんな器用な遊び方はできないタイプだからね」

 芹香の助言に、美玲はふっと表情を綻ばせた。
 
「……うん。今度こそちゃんと、朝霞さんと話し合うつもり。でも、その前に臣君と話し合わないと」
「そうね……気を付けてね? アイツもアイツでしつこそうだし」

 大きなため息とともに、呆れた視線を向けてくる芹香。

「……つくづく、あんた男選び下手よね」
「う……悔しいけど言い返せない」
「しっかりしなさいよ。朝霞さんとのことは置いておくにしても、あの男に流されるのはダメ。浮気は不治の病だから」
「もちろんそのつもりだけど……でも、いざ臣君を目の前にすると、どうしても言えなくて」
「はぁ?」
「嫌なこともされたけど……私なんかと付き合ってくれたのに、申し訳ない気がして」

 俯いた美玲の額を、芹香がピッと叩いた。

「いたっ!」

 顔を上げると、芹香が真剣な顔で美玲の瞳を覗き込んだ。
 
「それはね、美玲。アイツに申し訳ないんじゃなくて、あんたが傷つきたくないだけ。美玲の悪い癖よ。でも、わかってるよね? それじゃ誰も幸せになれないんだよ」
「……うん」

(どの道このままじゃ、朝霞さんに聞きたいことも聞けない。勇気を出さなきゃ)

「どうせ会っても流されちゃうなら、電話とかメッセにしてみたら?」
「あ……そうだね。そうしてみる!」

 夕食を終え、芹香はもう一度温泉へ行った。美玲はひとりロビーに出ると、臣へ電話をかける。すぐにコール音が途切れ、臣の声が聞こえてくる。
 美玲から電話がきたことに驚いているのか、その声は嬉しそうに弾んでいた。

『あ、もしもし美玲? お疲れ。研修どう?』
「うん……あのね、臣君。私の話を聞いてほしいんだ」

 美玲の声になにかを感じとったのか、臣の声のトーンが下がった。
 
『……なに? またあのこと? それなら俺は……』

(言わなきゃダメ。負けちゃダメだ。私と……それから臣君のためにも)

 美玲は心を奮い立たせ、ずっと言えずにいた言葉を紡いでいく。
 
「聞いてくれないと、困るの。このままじゃ私も臣君も、前に進めないままだから」
『なんだよ前に進めないって。勝手過ぎるだろ。そんなに俺と別れたいの?』
 美玲は意を決して、口を開く。
「……好きな人がいるの。私、その人に告白したい。だから……ごめんなさい」
『どうせ遊ばれてるだけだろ。目覚ませよ』
「そうかもしれない。でも、それでも伝えたいの。私の自己満足で振り回してごめんなさい。それでも後悔したくないの。……臣君にはすごく感謝してるよ。こんな私と付き合ってくれてありがとう」
『……そっか。わかった。じゃあな』

 臣は諦めたのか苛立ったのか、呆気なく電話を切った。
 手の中から響く通話の途切れた音に少しだけ寂しさを感じながらも、美玲は自分自身にこれでいいのだと言い聞かせた。