翌日、美玲は暗い気持ちのまま職場に向かった。会計課のある階まで向かうエレベーターの中、怜士とばったり遭遇する。

「あ……お、おはようございます」
「おはよう」
 どきん、と胸が鳴る。
 美玲は気まずさから目を逸らすと、
「!」
 
 二人きりの静かな箱の中、怜士の手が美玲の手に触れた。その手は美玲の手の甲をゆっくりとなぞるように辿っていく。それはまるで、ベッドの上での行為を思い起こさせるような、甘やかな刺激で。

「君は浮気性なの?」
「う、浮気!?」

 思わず怜士を見上げると、ようやくこちらを見たとでもいいたげに悪戯に笑う上司がいる。
 
「まだ別れられてないんでしょ」
「…………」

 肩にかけたバッグの紐を握る手に、力が篭もる。怜士には心の中まで読まれているかのようだ。
 
「どうして別れたいの?」

(わかってるくせに……)

 怜士の瞳に美玲の戸惑う顔が映る。そんな自分自身の顔に、ふと苛立ちを覚えた。

(いつも振り回されて、同じことの繰り返し……)

 ただ、今はどうしようもなく怜士に腹が立った。
 
「朝霞さんは、嘘ばかりです……本当は私のこと、どう思ってるんですか」
「……それなら俺も聞きたいな。恋人がいる君を俺がどう思ってるかなんて、どうして知りたいの?」

 じくりと抉られるような痛みを覚え、喉が詰まる。
 美玲が怜士から目を逸らすと、耳をくすぐるように怜士が顔を寄せてくる。
 
「嘘つきはどっちだろうね?」

 怜士は意味深に笑って、鏡に映る美玲たちを見た。

「なんて。俺たちは嘘つき同士だ」
「嘘つき同士……?」

 怜士の言葉の意味がわからず、美玲は首を傾げた。

(どういうこと? 私のことは好きじゃないってこと? それとも……)

 エレベーターの扉が開く。

「じゃ、研修頑張ってね」

 怜士はそのまま、美玲の問いに答えを出すことなく消えていった。

「……恋人……か」

 美玲は気持ちを燻らせたまま、三年目の職員研修へ向かった。研修先に向かうバスの中で、隣に座った芹香がひそひそとした声で話し出す。

「ねぇ、聞いた?」
「なに?」
「朝霞さんのこと」

 怜士の名前が出てきた瞬間、美玲の胸が弾む。けれどなぜか、続きを聞くのが怖く感じた。
 
「この前課長に聞いたんだけど、朝霞さんって奥さんいるんだね」
「え……」

 その瞬間、美玲は言葉を失う。突然心をなにかで抉られたかのような感覚を覚え、思わず胸を押さえる。

(奥さん? 朝霞さんって結婚してたの? でも指輪なんて……)

 怜士が結婚指輪をしているところを見たことはない。これまで、一度も。

「あ、でも正確には奥さんではないか。三年前にお見合いで婚約した人がいたらしいよ」
「三年前……」

(そんなに前から……じゃあ、私とは本当に遊びだったんだ)
 
「でも、結婚してないんだって」
「え、どうして?」
「さぁ……それはわかんないけど、でもずっと婚約は解消してないみたいだよ。本人が婚約は解消してないって言ってたらしいから」
「……そ、そうなんだ」

(それってつまり、結婚を約束してる恋人が今もいるってことだよね……)

「私はどうしたいんだろ……」

 呟いた言葉はバスのエンジン音に掻き消され、誰に拾われることもなく静かに消えていく。

 どんよりと重く黒い感情が胸の奥に沈み、それはまるで獲物を見つけた底なし沼のように、美玲の身動きを封じていく。
 美玲は暗い気持ちのまま、バスの窓から流れる街並みを見つめた。