二月十三日。バレンタインの前日。
野いちご学園高等部二年生である珠洲島環は、放課後に図書委員としての仕事を真面目にこなしながらも、その意識を睡眠への欲求に傾けていた。
(眠いな……昼休みに色々あって昼寝しそびれたから、余計に眠い)
傍から見ればすでに眠りこけてしまいそうなくらいにはぼうっと遠くを見ており、彼に向かって借りたい本を差し出した男子生徒は、遠い目をしながらゆっくりと貸し出し作業を行う様子を見て、今にも目を閉じてバタンとカウンターの上に倒れてしまうのではないかとヒヤヒヤした。
眠気のせいでうつむきつつも、環がどうにか作業を終えて男子生徒に本を渡し終えたあと、その男子生徒と入れ違いになる形でカウンターの前に別の生徒――スカートが見えるから女子生徒だ――が現れた。
(また貸し出し作業をしなくちゃいけのか……)
思わず溜め息を吐いた瞬間、
「珠洲島くん、大丈夫?」
と目の前から気遣わしげな声が聞こえてきた。それも、よく知っている声だ。
反射的に顔を上げると、そこには環からすれば先輩に当たる――つまりは三年生の――佐藤華子がいた。
「佐藤先輩……俺、もう……」
環がまるで今にも死にそうな声を喉から出すと、華子は「はいはい、眠いんだね。すぐに貸し出し作業、代わるから。カウンターの奥に行って寝ていいよ」と苦笑ぎみに応えた。
華子も環と同じ図書委員で、ついさっきまで返却された本を本棚に戻す作業をしていて、カウンターから離れていたのだ。
環は佐藤華子と、高等部の二年生となり図書委員になってから初めて接点を持った。
同じ図書委員の先輩と後輩。委員会活動の日に会うだけの存在。――最初はそうだった。
けれど優しく委員会の仕事を教えてくれて、ほどほどに甘やかしてくれる華子の隣にいるのは他の誰のそばにいるよりも居心地がよくて、環の方から積極的に彼女に関わるようになった。
三年生も関わる行事が行われた際は華子を探して行動を共にし、毎日ではないが昼休みにも昼食や昼寝を共にしようと現れ、休日にデートに誘ったことさえあった。一緒に下校することも珍しくはない。
けれど、ふたりの関係は恋人同士ではない。先輩と後輩のままだ。
同級生からは「恋愛に発展しないなんておかしい」と疑問視されたことがあるが、環からしたらなぜ華子との関係を変えなければならないのかと理解に苦しんだ。
そばにいたいと思った相手がいたら、告白をして恋人になって交際しなければいけないルールなどこの世には存在しないからだ。
それに華子からも、自分たちの関係について疑問を投げかけられたことはない。
そう。環は一度だって、「私たちの関係、おかしいよね?」なんて言われたことはないのだ。だから環は気にしたことがなかった。自分と華子との関係など。
カウンターの奥に行って寝ていてもいいという華子の優しい気遣いに対し、環はゆるゆると首を左右に振った。
「先輩のそばで寝る……隣で寝る」
それだけ言うとカウンターの奥から別の椅子を引っ張ってきて、カウンターのスペースを華子のために一人分空けた。
「え? そこじゃなくて奥で寝た方がゆっくり眠れるんじゃない?」
カウンターの内側に入ってきた華子が優しい口調で問うと、環はまたゆるゆると首を横に振った。
「先輩の隣が一番よく眠れる……」
華子はわずかに笑みをこぼすと、「そう」と応えて、今にもカウンターに突っ伏しそうな環の固い髪をそっと撫でた。
それが眠りのスイッチになったようで、環はすぐにカウンターに上体を預けてぐっすりと眠ってしまった。
環の家は女系家族で、さらには母や姉たちは一人残らず気が強く、末っ子の環は基本的に彼女たちに頭が上がらない。
そのせいで嫌いとまではいかないが、女性に対しては少しだけ苦手意識がある。気の強い女性を相手にするとなおのこと、その苦手意識が強く表に出てしまう。
その反動か、自分に対して優しく接してくれる女性には安堵と好意を覚えるのが常だ。
環は外見が整っていてなおかつほんわりとした雰囲気を持っているせいか、学園の一部の女子生徒からは「カワイイ」と言われて人気があり、優しくしてもらえる機会も多い。その際に見せる彼の好意的な言動が原因となり、キャーキャーと黄色い声で騒がれることも少なくない。
けれど、そんな環の言動を恋愛感情として受け取ってしまう女子生徒が時折だが存在してしまう。それは彼にとって悩みの種だった。
環が彼女たちに抱く好意は、優しくされたことへの喜びやもっと優しくされたいと思う意識から発生したものであって、相手を恋愛対象として捉えた際に発生する『好き』とは種類が違う。それをわかってくれる人もいれば、わかってくれない人もいるのだ。
後者に該当する女子生徒から告白をされて交際を断ると、「珠洲島くん、私のことが好きなんじゃなかったの?」と悲しげな顔で問われてしまうことは、環にとって珍しいことではなくなってしまっていた。
そんな時、環は正直めんどうだと感じてしまう。優しくされて、嬉しくなって、また優しくされたいと思っただけ。なのに好きとか嫌いとか、付き合うとか付き合わないとか、どうしてそういう話になってしまうのか。
そういうことで頭を悩ませるくらいなら、数式を解いたり、次はどんなテーマでどんな色を使って絵を描こうかと考える方がずっとずっと楽だった。
だから環にとって、何度も行動を共にしても恋愛関係になりたいと言ってこない華子は特別な存在だ。
一緒にいても愛や恋という、今の環にはよくわからないものを求めてきたりしない。こちらの変化を希望してこない。
そのことがどれだけ環を安心させているかなんて、きっと華子は気づいていないだろうけれど。
内容はまったく覚えていないが、幸せな余韻が残る夢を見て環は目を覚ました。
意識がぼんやりしたままの状態でおもむろに窓の外に目を向けると、すでに日が落ちかけていた。深い橙色が消えかかった空が見える。
少しの間だけ、空を眺めてから視線を外した。そうしてやっと、図書室にたくさんいたはずの生徒がいなくなっていることに気付いて首を傾げた。
「おはよう、珠洲島くん」
急に隣から声がして、環は反射的に肩をびくりと揺らした。さっと左に顔を向けると、そこには華子がいた。
自分の声に驚いた環が面白かったのか、華子は「ふふっ」と愛らしく笑った。カウンターの上で開かれていたハードカバーの分厚い本が、爪の整った両手によって音を立てて閉じられる。
「おはよう……ございます? 夕方なのにおはよう? あ……それよりも、もう委員会活動、終わり?」
「うん。もう司書さんも帰ったよ」
「そっか。あれ? それなら先輩は、どうしてまだここにいるの?」
「どうしてって、珠洲島くんを待ってたからに決まってるじゃない」
「あ、うん……そっか」
当たり前のように「待っていた」と言われて、環は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
(佐藤先輩……好きだ。これはきっと、たぶん、恋じゃないけど。でも、そもそも恋に分類される好きってどんな感じなんだろう? この胸の温かさは……?)
そんなことを考えていると、華子がカウンターの上に置いてあるスクールバッグから何かを取り出した。ラベンダー色の包装紙で綺麗にラッピングされている正方形の何かだ。
なんだろうと眺めている環に向かって、華子はそれを差し出してきた。
「突然ごめんね。これ、バレンタインのチョコレートなんだ。よかったら後で食べて」
突然のプレゼントに目を丸くしながらも、環はそれを素直に受け取った。さっきよりも胸の奥が温かくなっていくのを感じる。
華子からチョコレートをもらえたことが嬉しいと強く思った。と、同時に疑問が湧いた。
「ありがとう……ございます。でもバレンタイン、明日じゃなかったっけ?」
「うん。だけどきっと明日は渡せないと思うから。三年生はそろそろ定期考査があるから、その関係で明日はいつもより帰りが早いんだ。だから会うのが難しいと思う」
「そっか。じゃあ、明日は先輩と一緒に帰れないんだ……」
そう思うと急に寂しくなって、環はふうと溜め息を吐いた。寂しさを紛らわせるように、もらったばかりのチョコレートをぎゅっと胸に抱く。
そんなふうにマイペースな環を茶化すことも急かすこともなく、華子は「うん、また別の日に一緒に帰ろうね」と微笑んだ。
その後、ふたりは図書室を施錠して職員室に鍵を返却したあと校門を出て、アスファルトの敷かれた薄暗い道を並んで歩いていた。
華子より十センチ以上も背が高い環が、華子の歩幅に合わせて歩みを進める。
白い息が口からこぼれ続けている最中、環が口を開いた。
「……俺、今までバレンタインってチョコがたくさんもらえるお得な行事って認識だったけど、今日は初めて違う感想を抱いた」
「ふーん。どんな感想?」
「佐藤先輩からチョコがもらえる特別な……幸せな行事」
それを聞いた華子が驚いたように、大きく目を見開かせて環を見た。
「そんなに私からチョコをもらえたのが嬉しかったの……?」
「うん。すごく嬉しい。難しい数式が解けた時や、いい絵が描けた時と同じくらい嬉しい」
「でも明日は今日みたいに私からだけじゃなくて、きっと他の子からもチョコをたくさんもらえるよ? 去年だってたくさんもらえたんでしょう? 珠洲島くん、人気者だもん」
華子の言う通り、去年のバレンタインにはたくさんの女子生徒からチョコレートをもらった。持ち帰るのが大変になるくらいに――。
でも今日、華子からチョコレートをもらえた時と同じような気持ちにはならなかった。明日だってきっと、いや絶対に、同じ気持ちにはならない。
(俺、はっきりと確信してる。今、抱いてるこの気持ちは佐藤先輩が相手じゃないと芽生えないってことを……それって、ああ……そうか……いつの間にか、俺の気持ちも考え方も、こんなに変化してたんだ)
環は冬の冷たい空気を大きく吸い込んだ。そして、隣にいる華子の目をはっきりと見つめながら告げた。
「俺、明日になって他の子からチョコをもらえたとしても、きっと今日みたいに嬉しくならない。佐藤先輩からもらえたから、こんなに嬉しいんだ。……俺、先輩のことが好き。恋愛対象として好き。だから……俺と付き合ってください」
街灯で彩られた薄暗闇に、環の凛とした声が響いた。しゃべりながら吐き出した息が、白く羽ばたいて静かに消えていく。
街灯が照らす華子の顔は、まるでカーマインの絵の具を塗りつけたかのように色濃く染まっていた。
野いちご学園高等部二年生である珠洲島環は、放課後に図書委員としての仕事を真面目にこなしながらも、その意識を睡眠への欲求に傾けていた。
(眠いな……昼休みに色々あって昼寝しそびれたから、余計に眠い)
傍から見ればすでに眠りこけてしまいそうなくらいにはぼうっと遠くを見ており、彼に向かって借りたい本を差し出した男子生徒は、遠い目をしながらゆっくりと貸し出し作業を行う様子を見て、今にも目を閉じてバタンとカウンターの上に倒れてしまうのではないかとヒヤヒヤした。
眠気のせいでうつむきつつも、環がどうにか作業を終えて男子生徒に本を渡し終えたあと、その男子生徒と入れ違いになる形でカウンターの前に別の生徒――スカートが見えるから女子生徒だ――が現れた。
(また貸し出し作業をしなくちゃいけのか……)
思わず溜め息を吐いた瞬間、
「珠洲島くん、大丈夫?」
と目の前から気遣わしげな声が聞こえてきた。それも、よく知っている声だ。
反射的に顔を上げると、そこには環からすれば先輩に当たる――つまりは三年生の――佐藤華子がいた。
「佐藤先輩……俺、もう……」
環がまるで今にも死にそうな声を喉から出すと、華子は「はいはい、眠いんだね。すぐに貸し出し作業、代わるから。カウンターの奥に行って寝ていいよ」と苦笑ぎみに応えた。
華子も環と同じ図書委員で、ついさっきまで返却された本を本棚に戻す作業をしていて、カウンターから離れていたのだ。
環は佐藤華子と、高等部の二年生となり図書委員になってから初めて接点を持った。
同じ図書委員の先輩と後輩。委員会活動の日に会うだけの存在。――最初はそうだった。
けれど優しく委員会の仕事を教えてくれて、ほどほどに甘やかしてくれる華子の隣にいるのは他の誰のそばにいるよりも居心地がよくて、環の方から積極的に彼女に関わるようになった。
三年生も関わる行事が行われた際は華子を探して行動を共にし、毎日ではないが昼休みにも昼食や昼寝を共にしようと現れ、休日にデートに誘ったことさえあった。一緒に下校することも珍しくはない。
けれど、ふたりの関係は恋人同士ではない。先輩と後輩のままだ。
同級生からは「恋愛に発展しないなんておかしい」と疑問視されたことがあるが、環からしたらなぜ華子との関係を変えなければならないのかと理解に苦しんだ。
そばにいたいと思った相手がいたら、告白をして恋人になって交際しなければいけないルールなどこの世には存在しないからだ。
それに華子からも、自分たちの関係について疑問を投げかけられたことはない。
そう。環は一度だって、「私たちの関係、おかしいよね?」なんて言われたことはないのだ。だから環は気にしたことがなかった。自分と華子との関係など。
カウンターの奥に行って寝ていてもいいという華子の優しい気遣いに対し、環はゆるゆると首を左右に振った。
「先輩のそばで寝る……隣で寝る」
それだけ言うとカウンターの奥から別の椅子を引っ張ってきて、カウンターのスペースを華子のために一人分空けた。
「え? そこじゃなくて奥で寝た方がゆっくり眠れるんじゃない?」
カウンターの内側に入ってきた華子が優しい口調で問うと、環はまたゆるゆると首を横に振った。
「先輩の隣が一番よく眠れる……」
華子はわずかに笑みをこぼすと、「そう」と応えて、今にもカウンターに突っ伏しそうな環の固い髪をそっと撫でた。
それが眠りのスイッチになったようで、環はすぐにカウンターに上体を預けてぐっすりと眠ってしまった。
環の家は女系家族で、さらには母や姉たちは一人残らず気が強く、末っ子の環は基本的に彼女たちに頭が上がらない。
そのせいで嫌いとまではいかないが、女性に対しては少しだけ苦手意識がある。気の強い女性を相手にするとなおのこと、その苦手意識が強く表に出てしまう。
その反動か、自分に対して優しく接してくれる女性には安堵と好意を覚えるのが常だ。
環は外見が整っていてなおかつほんわりとした雰囲気を持っているせいか、学園の一部の女子生徒からは「カワイイ」と言われて人気があり、優しくしてもらえる機会も多い。その際に見せる彼の好意的な言動が原因となり、キャーキャーと黄色い声で騒がれることも少なくない。
けれど、そんな環の言動を恋愛感情として受け取ってしまう女子生徒が時折だが存在してしまう。それは彼にとって悩みの種だった。
環が彼女たちに抱く好意は、優しくされたことへの喜びやもっと優しくされたいと思う意識から発生したものであって、相手を恋愛対象として捉えた際に発生する『好き』とは種類が違う。それをわかってくれる人もいれば、わかってくれない人もいるのだ。
後者に該当する女子生徒から告白をされて交際を断ると、「珠洲島くん、私のことが好きなんじゃなかったの?」と悲しげな顔で問われてしまうことは、環にとって珍しいことではなくなってしまっていた。
そんな時、環は正直めんどうだと感じてしまう。優しくされて、嬉しくなって、また優しくされたいと思っただけ。なのに好きとか嫌いとか、付き合うとか付き合わないとか、どうしてそういう話になってしまうのか。
そういうことで頭を悩ませるくらいなら、数式を解いたり、次はどんなテーマでどんな色を使って絵を描こうかと考える方がずっとずっと楽だった。
だから環にとって、何度も行動を共にしても恋愛関係になりたいと言ってこない華子は特別な存在だ。
一緒にいても愛や恋という、今の環にはよくわからないものを求めてきたりしない。こちらの変化を希望してこない。
そのことがどれだけ環を安心させているかなんて、きっと華子は気づいていないだろうけれど。
内容はまったく覚えていないが、幸せな余韻が残る夢を見て環は目を覚ました。
意識がぼんやりしたままの状態でおもむろに窓の外に目を向けると、すでに日が落ちかけていた。深い橙色が消えかかった空が見える。
少しの間だけ、空を眺めてから視線を外した。そうしてやっと、図書室にたくさんいたはずの生徒がいなくなっていることに気付いて首を傾げた。
「おはよう、珠洲島くん」
急に隣から声がして、環は反射的に肩をびくりと揺らした。さっと左に顔を向けると、そこには華子がいた。
自分の声に驚いた環が面白かったのか、華子は「ふふっ」と愛らしく笑った。カウンターの上で開かれていたハードカバーの分厚い本が、爪の整った両手によって音を立てて閉じられる。
「おはよう……ございます? 夕方なのにおはよう? あ……それよりも、もう委員会活動、終わり?」
「うん。もう司書さんも帰ったよ」
「そっか。あれ? それなら先輩は、どうしてまだここにいるの?」
「どうしてって、珠洲島くんを待ってたからに決まってるじゃない」
「あ、うん……そっか」
当たり前のように「待っていた」と言われて、環は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
(佐藤先輩……好きだ。これはきっと、たぶん、恋じゃないけど。でも、そもそも恋に分類される好きってどんな感じなんだろう? この胸の温かさは……?)
そんなことを考えていると、華子がカウンターの上に置いてあるスクールバッグから何かを取り出した。ラベンダー色の包装紙で綺麗にラッピングされている正方形の何かだ。
なんだろうと眺めている環に向かって、華子はそれを差し出してきた。
「突然ごめんね。これ、バレンタインのチョコレートなんだ。よかったら後で食べて」
突然のプレゼントに目を丸くしながらも、環はそれを素直に受け取った。さっきよりも胸の奥が温かくなっていくのを感じる。
華子からチョコレートをもらえたことが嬉しいと強く思った。と、同時に疑問が湧いた。
「ありがとう……ございます。でもバレンタイン、明日じゃなかったっけ?」
「うん。だけどきっと明日は渡せないと思うから。三年生はそろそろ定期考査があるから、その関係で明日はいつもより帰りが早いんだ。だから会うのが難しいと思う」
「そっか。じゃあ、明日は先輩と一緒に帰れないんだ……」
そう思うと急に寂しくなって、環はふうと溜め息を吐いた。寂しさを紛らわせるように、もらったばかりのチョコレートをぎゅっと胸に抱く。
そんなふうにマイペースな環を茶化すことも急かすこともなく、華子は「うん、また別の日に一緒に帰ろうね」と微笑んだ。
その後、ふたりは図書室を施錠して職員室に鍵を返却したあと校門を出て、アスファルトの敷かれた薄暗い道を並んで歩いていた。
華子より十センチ以上も背が高い環が、華子の歩幅に合わせて歩みを進める。
白い息が口からこぼれ続けている最中、環が口を開いた。
「……俺、今までバレンタインってチョコがたくさんもらえるお得な行事って認識だったけど、今日は初めて違う感想を抱いた」
「ふーん。どんな感想?」
「佐藤先輩からチョコがもらえる特別な……幸せな行事」
それを聞いた華子が驚いたように、大きく目を見開かせて環を見た。
「そんなに私からチョコをもらえたのが嬉しかったの……?」
「うん。すごく嬉しい。難しい数式が解けた時や、いい絵が描けた時と同じくらい嬉しい」
「でも明日は今日みたいに私からだけじゃなくて、きっと他の子からもチョコをたくさんもらえるよ? 去年だってたくさんもらえたんでしょう? 珠洲島くん、人気者だもん」
華子の言う通り、去年のバレンタインにはたくさんの女子生徒からチョコレートをもらった。持ち帰るのが大変になるくらいに――。
でも今日、華子からチョコレートをもらえた時と同じような気持ちにはならなかった。明日だってきっと、いや絶対に、同じ気持ちにはならない。
(俺、はっきりと確信してる。今、抱いてるこの気持ちは佐藤先輩が相手じゃないと芽生えないってことを……それって、ああ……そうか……いつの間にか、俺の気持ちも考え方も、こんなに変化してたんだ)
環は冬の冷たい空気を大きく吸い込んだ。そして、隣にいる華子の目をはっきりと見つめながら告げた。
「俺、明日になって他の子からチョコをもらえたとしても、きっと今日みたいに嬉しくならない。佐藤先輩からもらえたから、こんなに嬉しいんだ。……俺、先輩のことが好き。恋愛対象として好き。だから……俺と付き合ってください」
街灯で彩られた薄暗闇に、環の凛とした声が響いた。しゃべりながら吐き出した息が、白く羽ばたいて静かに消えていく。
街灯が照らす華子の顔は、まるでカーマインの絵の具を塗りつけたかのように色濃く染まっていた。