それからというもの、モモはことあるごとにハルを避け続けた。
 仕事中も、休憩のときも、ハルとすれ違うときさえ足早になって、話しかけられないようにした。

 話し合いもなくハルと別れてから、一ヶ月が経った。
「モモ、おはよう。少しだけいいかな」
「忙しいので、申し訳ありません」

 モモは背を向けて足早に歩き出す。
 
「仕事しながらでもいいから」

 追いかけてくるハルから逃れるため、通りがかったトトに駆け寄る。
 
「あ……トトさま! あの、お仕事のことでお話が!」
「モモ……ハルさま」

 トトは困ったような顔をして、モモとハルを見た。

「待って、モモ。その前に俺と話をしよう?」

 すると、モモは困ったようにハルを見つめた。ようやく目が合ったことに嬉しく思いながらも、ハルはモモの表情に不安を覚える。

「……トト、少しモモと話をさせてほしいんだけど」

 トトはちらりとモモを見る。モモはぶんぶんと首を横に振り、トトの袖口を掴んだ。

「……話なら、モモの代わりに私がうかがいますが」
「……俺は、モモと話したいんだ」

 ハルがトトをじっと見つめる。

「彼女は話したくないようですよ」
「トトには関係ない。これは、俺たちの問題だから」

 ハルはほんの少し、苛立ったように言った。
 
「待ってください、ハルさま。トトさまは、関係なくなんてありません」
「モモ?」

 モモの手の力がきゅっと強くなる。トトはため息をつき、仕方なく手を取った。

「ハルさま。実は、私たち交際を始めたのです」
「……は?」

 ハルがモモを見る。

「トト、どういうこと?」
「言葉の通りですよ。報告が遅れて申し訳ありません。ですが、そういうことなので、今後彼女に手を出すのはやめていただきたいのです」
「……そうなの? モモ」
「は……はい。私たちは、メイド仲間公認のラブラブカップルなんです」

 モモはこくこくと大きく頷いた。トトは窓の外を見て、ハルに視線を戻した。

「それよりハルさま。さきほど、ガールフレンドの馬車が到着したようですよ」
「ガールフレンド?」
「サク・グランドラさまのことです。あぁ、そういえば、モモさまはご存知ありませんでしたね」
「……トト、やめろ」

 ハルがトトを睨み、牽制する。

「別れたのだから、黙っていることはないでしょう」
 
 モモは、首を傾げてトトを見る。

「なんですか?」
「サクさまは、ハルさまの結婚相手なんですよ」

 モモの心臓が、どくんと大きく跳ねた。
 
(……結婚相手?)

 モモは困惑する。

(結婚って、あの……結婚だよね)

 途端に心の奥がざわざわと音を鳴らし出す。トトはモモをぐいっと引き寄せると、ハルを見据えて言った。

「あなたがハルさまと恋人同士だったときは、騙されているあなたが不憫で黙っていましたが……今はもういいでしょう? ……ね、ハルさま」
「本当なんですか? 結婚って……」
 
 モモはハルをじっと見つめる。しかし、ハルはだんまりだった。

(……否定……しないんだ)
 
「……ハルさまは、結婚されるのですか?」

 震える声で訊ねると、ハルは俯いたまま小さな声で言った。
 
「……たしかにサクは婚約者だけど、あれは昔、お父様が勝手に取り付けた話だ。今はもう……」

 ハルの曖昧な言葉は、モモの胸の奥のなにかを萎ませた。途端に冷水を浴びせられたような感覚になる。
 
「……なんだ。良かったです」

 自分でも驚くほど、乾いた声が出た。
 
「……良かった? ちょっと待って……モモ、どうしてそんなこと言うの……」
 
 ハルが動揺の目をモモに向ける。モモは俯いたまま、小さく笑った。
 
「少なからず罪悪感がありました。ハルさまにはとても優しくしていただきましたから」
「待ってよ。お願いだから、勝手に過去の話になんてしないで……」
 
 ハルの声に、モモは睫毛を震わせた。

「……さよなら」

 モモはハルに背を向け、歩き出す。トトはハルに軽く頭を下げつつ、モモを追いかけた。

 ハルの姿が見えなくなるまで歩くと、モモはようやく息を吐いた。同時に頬を涙がつたう。

「……なぁ、コン。ちゃんと話さなくてよかったのか?」
 
 隣に並び、歩調を合わせて歩きながら、トトはモモを覗き込む。
 
「……いいんです。今さら話したって、なにも変わりませんから」
 
 なにも変わらない。モモはハルの結婚相手ではないし、貴族でもない。そもそも人ですらないのだ。結ばれることを望む資格もない。
 
「……完全に失恋ですね」

(ひとりで浮かれて、ひとりで泣いて……バカだな、私)
 
 トトは足を止める。

「トトさま?」
「……ごめん。ハルに婚約者がいること、黙ってて」
「……顔をあげてください、トトさま。トトさまは私のことを思って黙っててくれたんでしょう?」
「……でも、傷付いただろ」
「……いえ。ふっきる良い機会になりました! ありがとうございます、トトさま」
 
 無理して笑うモモに、トトは堪らなくなる。

「さ、仕事に戻りましょう」

 モモは努めていつも通りの笑顔を浮かべて、再び歩き出した。トトは歩き出したモモを追いかけながら、その背中を見つめた。
 
「……なぁ、コン」
「はい?」
「……俺たち、結婚しない?」
「……は?」

 今度はモモが足を止めた。

「……な、なんの冗談です?」
「冗談じゃない。そもそもお前、ここで土地勘もなにもないのに、一人で子ども育てるなんて無理だろ? 屋敷から出たことねえじゃん」
「そんなことないですもん。いざとなれば、なんとかなりますよ」
「……住むとこは? 子ども育てながら働けんの? 飯作れんの? 掃除は?」

 モモはがーんと落ち込んだ。
 
「……う。いきなり現実を突きつけないでくださいよ……」

 トトがモモの手を取る。
 
「……俺に、そばにいさせてくれないか?」
「……あの、私はハルさまの子を身ごもってるんですよ? そんな女にプロポーズとか、トトさま頭でも打ちましたか」
「打ってねぇし、先輩に失礼なこと言うなっつーの」
「あたっ! うぅ……叩かなくてもいいじゃないですか」

 モモは頭を押さえたままトトを睨む。
 
「お前が悪いんだろ」
「すみません」
「……で、どうなの」

 トトはちらりとモモを見た。

「……その……でも、私は……」
「ハルを好きなままでいいから。俺を利用していい。好きじゃなくてもいいから」

 モモは口を引き結ぶ。

「とりあえず、ひとりでがんばります。でも、どうしてもだめだったら、頼ってもいいですか」
「……分かった」

 トトは苦笑しながら、モモの頭にぽんと手を置いたのだった。