あの霧の日はきっと、何かの節目だったのだ。そう思わせるほど、世界は日々急ぎ足で閉じていった。
人口が激減し、学校が閉鎖になり、しばらくして電波が途切れた。生活に必要最低限の電気しか使えなくかり、テレビもネットも繋がらなくなった。
世界はどんどん閉じていく。まるで終わりの準備を着々と進めているかのように、1つずつ何かを終えてゆく。それに合わせるようにして、私も、まわりの状況もどんどん変わってゆく。もう、誰にも止められない。
電波がストップして1ヶ月が立ち、8月になった。もはや暦など意味のないものになっているけれど、日付もわからないと気が変になってしまいそうだった。
いや、もうとっくに、私は変になっていた。
「あんた、やばいよ。鏡見てみなよ」
お姉ちゃんにそう言われたとき、なんのことかわからなかった。
鏡を見て、愕然とした。そこに映っていたのは、いつも見ている自分の顔ではなかった。顔はやせ細り、顔色は青白く、こわごわ頭に触れたら、髪の毛が束になって抜けた。
どうして、いつの間にこんなことに。
こんな姿じゃ、ユキに会えないよ……。
泣くこともできなかった。
ユキ、と私は祈るようにその名前をつぶやく。
ユキ、助けて――。

私は家を抜け出して学校に向かった。
校舎は閑散としている。ついこの間まで普通に人が出入りしていたとは思えない冷ややかな空気だった。
それなのに――用もないのに、私は学校に来ていた。
いや、用ならあった。屋上に。
なるべく高い場所のほうが電波が入るかもしれない、という短絡的な思考。だけど今は、そんな頼りないものにでも縋るしかなかった。
ユキに会いたい。だけどその手段がない。だって私は、ユキのことをなにも知らないのだ。
4年間も毎日のようにやりとりをしていたのに、内容は当たり障りのないことばかりで、私たちはお互いの本名も、顔も、どこに住んでいるのかも、なにも知らなかった。
知らないほうが気楽だから。そんなふうに思っていた。お互いあえて言わないという暗黙の了解があった。
だけど、今では、どうして聞いておかなかったのかと、激しく後悔する。
どこかで安心していた。電波が繋がらなくなるなんて、想像もしていなかった。たったそれだけで、連絡手段のすべてを失ってしまうだなんて。

私は鉄柵の向こうに広がる、変わり果てた街並みを見つめた。空は相変わらず灰色の雲が重々しく覆いかぶさって、この静かな町を今にも飲み込んでしまいそう。
ついこの間まで、街にはまだ活気があった。人が、車が、物が、あふれていた。
ついこの間、だったはずのそんな光景が、ずいぶん遠い過去の記憶に思えた。
「ユキ……」
私は柵に頭を押し付けるようにして、その名前を呼ぶ。手の中に、もう何日も微動だにしない携帯を握りしめて。
どうして、もっと早く言わなかったんだろう。
どうして、こんな小さな機械に頼って安心していたんだろう。
今いちばんしたいこと。
今いちばん会いたい人。
4年前から、ずっと変わらないのに。
会いたいって、たった一言、言えばよかったのに。

「会いたい……!」

言葉にすれば、心の底からその思いが突き上げてくる。

「会いたいよお……ユキ……っ!」

どうしようもなく、今、君に会いたい。
ねえ、届いて。お願いだから、届いてよ。
どこにいるかもわからない。ずっとずっと遠くにいるかもしれないけど。
ユキ。ユキ。ユキ――……!
私は君の名前を叫び続ける。
濁った空気にかき消されないように。君のところに届くように。

そのときだった。
手の中で、ブルル、と携帯が震えた。
――えっ?
私はハッとして、泣きだしそうになる。ずっと昔に聴いた子守唄みたいに、その音に安心する。
おそるおそる携帯の画面を見てみる。
電波が、1本だけ、経っていた。
届いたメッセージを見て、私は目を開く。
「なに、これ……?」
届いていたのは、

『俺』

たったひと文字だけ。
「俺?それだけじゃわかんないよ……」
でも、それは間違いなく、ユキからのメッセージだった。
それだけで救われたような気持ちになる。
ユキは無事だった!まだ望みが消えたわけじゃない!
次の瞬間、また、ピロン、という音とともに、新たなメッセージが届いた。

『も』

それを見て、胸が熱くなった。

“俺も――”

私は携帯を握りしめて、祈るように次の言葉を待った。
メッセージはひと文字ずつ間隔を開けて送られてきた。まるで船乗りがチカチカとモールス信号を送るみたいに慎重に。
全てのメッセージが送られてきたとき、私は胸がじんと熱くなるのを感じた。
ひとつひとつの文字が繋がって、やがて文になった。

『俺も会いたい。』

私は携帯を強く握りしめた。涙がとめどなく内側から溢れて流れだす。

――通じた。通じたんだ!

ユキが無事だったこと。会いたいと言ってくれたこと。それだけでもう充分だった。

――大丈夫だ。まだ間に合う。

私たちは、きっと会える。
4年前に、約束したあの場所で。