「え」
イノリからのメッセージを、俺は思わず二度見した。

『会いたい。』

スマホの画面には、そうはっきりと書いてあった。
「ええっ!?」
俺は驚き、狼狽え、それから少し、不安になった。
なにかあったんじゃないか。
4年間で、イノリが会いたいと言ったことなんて、これが初めてだったから。
これって、どういう意味なんだ。
会いたいって。いや、でも、ええええ?


「由貴」
「うわ!……って父さんかよ」
ひとり挙動不振な動きをする息子に、父さんがは無言で哀れみの視線を向けてくる。地味に恥ずかしい。
「なに?」
「いや……忙しいならいいんだが」
「忙しそうに見える?」
「いや……」
しばしの沈黙。父さんが黙るときは、なにか話があるときだ。
「なに?」
改めて、俺は尋ねる。
父さんは小さく息を吐いて、
「お茶でも飲むか」
とおもむろにお茶を淹れはじめる。マイペースな父親だ。

ずずず……。
親子ふたりで向かいあってお茶を飲みながら、また沈黙する。そんな要領の得ない空白ののち、ようやく父さんが、口を開いた。
「由貴。おまえはいつもよくやってくれている。ばあさんの世話まで任せて、すまないとも思ってる」
「え、なに、急に」
唐突にそんな話が始まって、俺は面食らってしまっあ。もしかして、病気とか?
「だから」
と父さんが少し考えるように間を置いた。
「だから、これからはおまえの好きに生きなさい」
「…………」
いよいよ困惑してしまう。父さんの口からそんな言葉が出てくるなんて、まったく予想外だった。
「もしかして、見た……?」
さっきのイノリからのメール、見られたとか?
しかし、
「なにをだ」
父さんの怪訝な顔に、違うか、とすぐに俺はその可能性を否定する。
「いや、なんでもない」
とりあえずホッとして、でも、また疑問が残る。
「じゃあなんで、いきなりそんなこと言うんだよ?」
「いきなりじゃないさ」
父さんは少し困ったように笑った。
「この町の人たちもどんどん他へ移っていく。もうこの国でどこが安全なのかもわからないがな。お前もどこか行きたいところがあるなら、好きにしたらいい。子どもを守るのが親の役目だが、家に縛りつけるのとは違うからな」

黙っていると、父さんは真面目な表情のまま続けた。
「いるんだろう?お前にとって、大事な人が」
「……知ってたのか」
俺は苦笑した。親にこういう話をするのは、やっぱり気恥ずかしさがある。
「そりゃあ、ただひとりの親からな。おまえが家のことを心配してるのも、わかってる。おまえは優しい子だ」
「…………」
普段は絶対口にしないようなむず痒くなるようなことを、昼間から父さんは平然と言う。お茶にアルコールでも入ってるんじゃないだろうか。
「でも……」
「ばあさんのことは心配するな。なあ、由貴。子どもはな、もっと自由でいいんだ」
そう言う父さんの目は、いつになく優しげだった。それでいて、意思の強い瞳。もう、どんな反論も認めないぞというような。
「ありがとう」
と俺は言った。
「ちょっと、買い物に行ってくるよ。ばあちゃんに頼まれてたんだ」
「今からか?でも今日は……」
「すぐそこだろ。大丈夫だよ、そんな心配しなくても」

玄関のドアを開けると、思った以上に霧が濃くて驚いた。
行方不明者多数、とニュースで言っていた言葉が頭に浮かびあがる。
今日は朝から霧が異常に濃くて、視界が悪い。雨が降っているところもあるらしいけれど、この辺りは降っていなかった。なのに、空気は驚くほど澄んでいた。まるで冬みたいだ。キリッと張りつめていて、太陽ののぼりきらない夜と朝の中間のような、冬の朝靄を思わせる。
今は7月のはずだが、とっくに暦など無意味になっている。照りつける太陽すら、もうずっと分厚い雲の向こうに隠れたままだ。
イノリが心配だった。
俺も会いたい。今すぐにでも、そう返事をしたかった。
でもーーこの期に及んでもまだ、決心がつかないでいる。
女の子に会いたいと言われて、親に背中を押されて、それでもまだ決心がつかない自分に嫌気がさす。何が足を引っ張っているのかさえ、もはやよくわからない。
モヤモヤとした気持ちを振り切るように、俺は自転車を走らせた。視界が悪いせいで、距離感がうまく掴めない。
なんだよこれ。あり得ないだろ。
あまりに現実味のない光景に、笑いすらこみあげてくる。
本当に視界がぼやけて見える。この霧の中に人が倒れていても、気づかないかもしれない。

買い物を済ませてすぐに帰るつもりだったのに、夢と現実の間を彷徨うように、気づけば随分自転車を走らせていた。
防波堤の傍らで、自転車を停めた。砂浜に人がいた。かろうじて、男だとわかる人影が揺らめいている。
なぜだか、ひやりとした。そのまま海に入っていきそうな危うさがあった。
俺は自転車をその場に停め、防波堤を乗り越えて砂浜に降りた。近づいてみて、その正体が判明した。
そこに立っていたのは、同じクラスの草壁藤也だった。

「――藤也」

霧の中に立つ影に声をかけた。影がゆっくりと振り返る。もっと近づくと、影はようやくその輪郭をくっきりと靄の中に人物像を浮かび上がらせる。
「おう、由貴」
藤也はとくに驚きもせず、ゆっくりと振り返る。なんだか、いつもと様子が違う。
「どうした。俺が海に入るとでも思ったか?」
「いや……」
まさにそうだったのだが、思わず否定した。
「死なないよ、俺はまだ、死なない」
藤也はなにかの決意表明のように、強い口調でそう言った。
見れば、その手になにかを握りしめている。なんだろうと見ていると、視線に気づいた藤也が手を開いた。
手のひらには、白い砂のようなさらさらとしたものが乗っていた。でも、違うとすぐにわかる。
それは――灰だった。


「兄貴だよ」
と、藤也は目を伏せて言った。
「え……」
どん、と心臓を強く押されたような衝撃。
藤也には、大学生の兄がいた。
家に遊びに行ったときに、一度会ったことがある。藤也と違い、おとなしくあまり感情を外に出さないタイプの人だった。
昨日、と言う藤也の声が、少し震える。
「家に帰ったら、こうなってた。人ってこんなあっけないのな。朝はちゃんと人間の形してたのに、帰ってきたら灰になってんだぜ」
俺は、あまりの衝撃に、何も言えずにいた。
藤也の手の指の間から、さらさらと灰がこぼれ落ちてゆく。灰は砂と混じって見分けがつかなくなる。
胸が苦しくなる。呼吸のペースが、一瞬わからなくなる。

――これが灰害か。

この灰色の空から絶え間なく灰は降り続け、ゆっくりと地上に降り積もり、土を、生き物を、この地球上の全てを、空と同じように灰に変えてしまう。
人が一瞬にして灰になる。目に見えぬ速度で体内に降り積もり、最後はほんの一瞬。痛みすらなく、人が粉々になる。
俺はまだその瞬間も、灰になった人も、この目で見たことはなかった。
でも、それが幸運なことだったのだと、今思い知る。
目の前に、ある。かつて人だったものが、跡形もなく灰となって地面にこぼれ落ちてゆく。
自分の足が踏みしめている砂の中に、どれほどの人の命が埋まっているのだろう。
恐ろしいものは霧の中だけではない。この地面も、どこもかしこも、もうどこにも、安全な場所などないのだ。

「兄貴さあ、好きな人がいたんだ。でも言えなかった。こんな性格だから、相手の幸せを願って、とか考えてたんだろうな」
藤也が独り言のように、訥々と語りだした。
俺は黙って聞いていた。
「なあ、相手の幸せってなんだ?相手がそうして欲しいって言ったのか?言われなくてもわかるほど、相手のこと知ってんのか?」
俺は、と藤也はひと呼吸おいて言った。
「俺は言うよ。好きなヤツに、ちゃんと言う。相手の幸せとかどうでもいい。大事なのは自分の気持ちだろ」
なあ。
「おまえは、何もしないままなのか?」
藤也は俺の目を見て言った。
「大人になるまでとか、世界がそんな悠長に待っててくれるとでも思ってんのか?」
どくん、とその言葉が胸を打つ。

“大人になったら”

それは、逃げだった。行動する勇気がないことへの言い訳だった。
本当は今すぐでも、よかったんだ。

ようやく、俺は口を開いた。
「イノリから、会いたいって言われたんだ」
「まじかよ……」
藤也が呆れた声で言う。
「おまえ、女の子にそれ言わせたのかよ?」
言われなくてもわかってる。俺は、とんでもなく鈍感でヘタレだ。
「で、どうすんの?」
答えがわかっているような言い方だった。
もう迷ってはいなかった。
世界はもうとっくに普通じゃなくなっている。この先なにが起こるかなんて、誰にもわからない。迷っている暇なんて、片時もなかった。

「ああ」と俺は言った。
「会いに行くよ」

俺は、君に会いに行く。