灰色の世界で、君に恋をする



夢を見た。ユキと一緒にいる夢だった。
私とユキは同じ学校に通っていて、学校帰りに、夕暮れの桜並木の下を並んで歩いている。ユキが自転車をゆっくり押して、私はその隣を歩く。
今日あったこととか、帰りに寄り道していこうとか。なんてことないことでも楽しくて、笑ってしまう。
夕陽に照らされて紅く染まったユキの横顔を、私はそっと見つめる。ふいに目があって、なに?とユキが首を傾げる。なんでもない、私は言いながら、なんだか泣きたくなってしまう。

――ああ、これは、夢なんだ。

本当は知ってるから、こんなことは、あり得ないって。
これは夢で、現実には起こり得ないことなのだと、夢の中でもわかってしまうから。

朝、起きて窓を開けると、窓の外が真っ白だった。まだ夢から醒めていないような気になったけれど、それは現実の景色だった。
あたり一面、濃い霧に覆われていた。白靄でほとんど失われた景色の中に、かすかに糸のように細い雨の線が見えた。
テレビをつけると、天気予報のアナウンサーが神妙な顔つきで言う。
『今日は全国的に非常に濃い霧が出ています。視界が悪く、灰が多く含まれている可能性があるので、外出の際は注意してください』
今日は花粉が多いです、みたいな感じで言っているけれど、ほんとうに危険なのだから、アナウンサーの顔が強張ってしまうのも仕方ない。
花粉はくしゃみや鼻水などのわかりやすい症状があるけれど、灰害は最後の瞬間まで、見た目にはわからない。体内に入り込み、蓄積し、内臓や皮膚細胞を内側から破壊し、最後にはすべてを灰に変えてしまうのだ。
その日、生徒が減っていっても頑なに休校にならなかった学校が、初めて休みになった。
1階におりていくと、父と母と姉、家族全員が揃っていた。
「おはよう、祈」
お母さんが全員分の朝ごはんの支度をしながら言った。
お父さんは新聞を読んでいて、お姉ちゃんはお父さんそっくりの仏頂面で分厚い本を読んでいる。お父さんが勤めている大学も、お姉ちゃんが通う大学も、さすがに今日はお休みなのだろう。
「おはよう」
個人主義を貫いているこの家では、全員揃って食事をすることは滅多にない。それぞれやるべきことをこなしてから、空いた時間に食事をとる。食事は空腹を満たすためであって、それ以上の意味はない。家族の団欒などというものには、慣れていないのだ。

「祈、手が空いてるならちょっと手伝ってちょうだい」
慣れないことをしているせいで、お母さんの手際は側から見ていると、おそろしく悪かった。テーブルとキッチンの間を、忙しなくいったりきたりしてる。
「これを運べばいいの?」
「ありがとう、助かったわ」
大したことはしてないのに、お母さんはすごくありがたそうに私にそう言った。
ちょっとした家族の食卓の光景が、テーブルに出来上がる。バゲットに盛られたパンに、半月みたいに膨らんだオムレツ、傍にちょこんと添えられたミニトマト。ブルーベリージャムにバター、それから少し覚めたコーヒー。
「いただきます」
と、私とお母さんが声を揃える。お父さんとお姉ちゃんは無言で食べ始める。
ほんとに無口な人たちだなあ、と私はパンにジャムを塗りながら改めて思う。無口で表情の変化もほとんどなく、何を考えて過ごしているのか、家族なのに全然わからない。
「なに?」
お姉ちゃんが私の視線に気づいて尋ねる。
「ううん、なんでもない」
そう、とお姉ちゃんは頷くと、また黙ってオムレツを切って口に運ぶ。
あ、と思う。今、おいしそうな顔した。絶対、した。
「お姉ちゃん、オムレツ好きなんだね。知らなかった」
私が少し笑って言うと、
「べつに、普通だけど」
と怪訝な顔をされた。

朝ごはんを食べ終わると、お父さんとお姉ちゃんはすぐに自分の部屋に引っ込んでしまう。お母さんは洗い物。こんなときでも、うちは変わらないな、と私は苦笑する。まあ、急に団欒とかしはじめても、どうしたらいいかわからなくて困るけど。
そう思ったとき、玄関のチャイムが鳴った。
「誰かしら。祈、出てくれる?」
「あ、うん」
ドアを開けると、郵便屋さんが立っていた。フードつきの全身を覆う銀色のカッパを着て、マスクをしている。全身防備だ。ちょっと怪しいけど、フードの下にはちゃんと郵便局の帽子もかぶっている。背後には、赤い郵便マークのついたワゴンも停まっている。
「ここにサインをお願いします」
とペンを渡され、私は「サクラダ」と伝票にサインをした。渡すのと同時に、
「大変ですね」
つい、そんな言葉が洩れた。
外が危険でも、この人たちは、物や手紙を、届けなければならない。誰かがそれが届くのを、待っているから。
「そうなんですよ」と、彼はその言葉を待っていたように、マスクを外して、ふう、とため息を吐く。
マスクをとると、全然怪しくなんかない、人のよさそうなお兄さんだとわかる。
「霧で前が見えなくて、めちゃくちゃ安全運転ですよ。今日くらい、休みにしてくれてもいいのに。あ、すいません、愚痴っちゃって」
思わず本音が洩れてしまったみたいで、私はつい笑ってしまった。
郵便屋さんも照れたように笑った。

「ありがとうございました」
私は手紙を受け取って言った。
「では、お邪魔しました」
郵便屋さんが赤いワゴンに乗り込んで、エンジンをかける。ほんとうにびっくりするくらい霧が濃い。赤いワゴンはすぐに霧の中に消えてしまった。
ようやく受け取った手紙のことを思い出して、差出人をチェックする。その名前を見て、驚いた。

「――サユミ!?」

思わず叫んでしまった。サユミが引っ越してから、手紙がくるのは初めてだった。メールじゃなく手紙というのが、なんだかサユミらしい。飾り気のない、シンプルな白い封筒に入っていた。
そこにはなにか、きっと、重要なことが書いてある。読む前から、私はなぜかそんな気がしていた。

『祈へ。』

サユミってこんなに字きれいだったんだ。サユミの字は何度も見ていたはずなのに、初めてそう思った。

『久しぶり。元気してる?
あたしはこっちで元気にしてるよ。おばさんの温室で野菜つくってるんだ。これがなかなか楽しくて、野菜の成長を眺めるのが楽しみになってるよ。
それから、もう1つ近況報告。なんと、好きな人ができました!ひとつ年上の農家の人で、すごくいい人なんだ。
あたし、今すごく幸せだよ。好きな人のそばにいられて、それだけで自然に笑顔になれて、恋するってこういうことなんだって知った。知らなかったら、たぶん後悔してた。
おせっかいかもしれないけど、あたしは祈にもこの幸せな気持ちを知ってほしいと思う。好きな人に会って、ちゃんと気持ちを伝えてほしいと思う。
祈が勇気を出せるように、ムーンストーンのブレスレットを入れておいたよ。月の石、幸せの石。あたしは心から、祈の幸せを願ってるよ。
残念だけど、これがきっと、最後の手紙になると思う。
もっと祈とたくさん話したかった。お互い恋バナとか、もっといっぱいしたかったな。
祈、元気でね。自分に正直に生きてね。
祈ならきっと大丈夫だから。ガンバレ。
バイバイ。』

「最後って……嘘、だよね?」

私は手紙の文字を眺めながら、愕然とした。
最後の手紙?なんで?もう会えないってこと?
そのとき、封筒の中から、なにかがポロリと落ちた。
乳白色の石が輪っかに連なったブレスレット。ところどころに、小さな桜色のビーズが挟まれていて、すごく、

――すごく、きれい。

「……っ」
声より先に、嗚咽が洩れた。
予感はあった。嫌な予感。サユミから手紙が届いた時点で、きっとなにかあったんだって。
月の石。幸せの石。

『あたしは心から、祈の幸せを願ってるよ』

涙があふれて、ブレスレットにぽたぽた落ちる。
なんで。なんで、こんなに理不尽なんだろう。
好きな人ができて、やっと夢が叶って、もっともっとしたいことがたくさんあったはずなのに。
恋バナだってしたかった。いろんな話、聞かせてほしかった。

『やりたいことやるなら今のうちだよ』

そんなの、決まってる。ずっと前から、私の願いは、たったひとつだけだった。


「ユキ」

私は祈るように、君の名前をつぶやいた。
ユキ。ユキ。ユキ。
声を聞いたこともないし顔も知らないけれど、初めてこんなにも強く、そう思った。
スマホを手にとる。ユキの名前を探してメッセージを送る。

『会いたい。』

願いは、ひとつだった。
君に会いたい。会いに行きたい。
ずっと言いたかった言葉だった。何度も打っては消した言葉だった。
いつか、そのときがくると思ってた。まだそのときじゃないんだって思ってた。
でも、いつかっていつだろう。
大人になるまでなんて待てないよ。
だって、明日があるのかさえわからないんだから。

いつもみたいに、返事はすぐに帰ってこなかった。

『今日は灰の濃度が非常に濃くなっており、視界が悪くなっております。外出は極力避けるようにしてください』

さっきから、リビングのドア越しに聞こえるテレビのニュース。ずっと同じようなことを繰り返している。


『また、行方不明が続出し、捜索が困難な状態で――』

どくん、と胸が大きく鳴った。
行方不明……。
どうしよう。返ってこなかったら。
まさか。
たまたま気づいていないだけ。スマホが手元にないだけ。
ユキ、お願い。
なにか、どんなことでもいいから。返事をちょうだい。
だけど、私の願いは叶わず――、
その日以来、ユキと連絡がとれなくなった。