ガチャン、と少し強い風が吹けばすぐにでも外れそうな年季の入ったドアを開けて、俺は自転車だらけの店の中に入る。
父さんが店の隅のスペースで自転車の修理をしている。
「ただいまー」
と一応は言うけれど、俺が帰ってきたことには、たぶん気づいていない。
このおんぼろでちっぽけな『真嶋サイクル』は、早死にしたじいちゃんから父さんが引き継いで細々と続けている自転車業であり、2階は真嶋家の住処になっている。
街はじいちゃんが店をやっていた頃から随分発展してきたと思うけど、この店は時代の変化に適応することなく、昭和に取り残されたままだ。
店内は、ほんとに売る気があるのか疑わしくなるくらい、とにかく狭い。売り物と修理中の自転車の区別はおそらく父さんにしかつかないし、狭苦しい店内には常にオイルの匂いが充満しているので、長時間いると気分が悪くなってくる。この自転車屋がいっこうに繁盛しないのはそこらへんが大いに関係していると俺は思っている。そして、当の店主がそのことをまるで気にしていないことも。
じいちゃんといい父さんといい、自転車にかける愛が強すぎるのは充分すぎるほど伝わるが、それ以外のこと(たとえば金銭感覚とか、美的感覚とか)は、どうも一般的な感覚とはズレているのだ。俺のバイトの収入を合わせて、貧乏なんとか家族3人が持ちこたえている状態だ。

今年82歳になるばあちゃんは、足を悪くして以来、居間の椅子に座ってテレビを見ているか、自分の部屋で寝ているかのどっちかだ。立ち上がろうとすると痛むのだそうだ。
「それより、小腹がすいたねえ」
「せんべいならそこにあったけど」
「せんべいか……ふう……」
これ見よがしにため息をつく、図々しいばあちゃんだった。
「わかったよ、後で買ってくるよ。何がいい?」
「あら、そう?じゃあ三ツ矢サイダーとミルクキャラメルと冷たい緑茶と……」
「わかった、いつものやつね」
襖を閉めて、ふう、と今度は俺ががため息をつく。
庭に2つ自転車が並んでいる。我が家の乗り物は、この2つだけだ。俺のは艶を失ったシルバーで、父さんのは錆なのか元の色なのかわからない茶色の自転車。こちらは何十年ものである。自転車屋とは思えないくらい、オンボロの自転車をどちらも愛用している。親子揃って自転車愛が強すぎるので、乗れるうちはギリギリまで乗るつもりだった。
勾配のきつい坂道を下っていく。車輪がガシャガシャ音を立てて飛んでいかないか少し心配になる。
バイト先でもある近所のコンビニに自転車を走らせる。買い物をして、家に帰ってまた店に戻る。面倒だけど、わりとよくあることだった。
風もないのに、潮の匂いがした。ここからでは見えないけれど、自転車を30分ほど走らせれば海が見える。これといって特徴のない街だけれど、夏になれば、例年なら海水浴客が増えるころだった。でも今年は、海水浴自体、禁止されている。
灰で汚染された海に、ほとんど魚はいない。生きていても有害物資を含んでいるとかで売り物にならず、多くの人が仕事を失い、街を出て行き、あるいは絶望して死の海に身を投げた。そんな海で泳ごうなんていうのは、もはや自殺行為でしかない。
この街はもう終わりだろう。うちの自転車屋も、学校も、バイト先のコンビニも何もかも、今まで必死に守ってきた生活が、どんどんできなくなっていく。

今年82歳になるばあちゃんは、足を悪くして以来、居間の椅子に座ってテレビを見ているか、自分の部屋で寝ているかのどっちかだ。立ち上がろうとすると痛むのだそうだ。
「それより、小腹がすいたねえ」
「せんべいならそこにあったけど」
「せんべいか……ふう……」
これ見よがしにため息をつく、図々しいばあちゃんだった。
「わかったよ、後で買ってくるよ。何がいい?」
「あら、そう?じゃあ三ツ矢サイダーとミルクキャラメルと冷たい緑茶と……」
「わかった、いつものやつね」
襖を閉めて、ふう、と今度は俺ががため息をつく。
庭に2つ自転車が並んでいる。我が家の乗り物は、この2つだけだ。俺のは艶を失ったシルバーで、父さんのは錆なのか元の色なのかわからない茶色の自転車。こちらは何十年ものである。自転車屋とは思えないくらい、オンボロの自転車をどちらも愛用している。親子揃って自転車愛が強すぎるので、乗れるうちはギリギリまで乗るつもりだった。
勾配のきつい坂道を下っていく。車輪がガシャガシャ音を立てて飛んでいかないか少し心配になる。
バイト先でもある近所のコンビニに自転車を走らせる。買い物をして、家に帰ってまた店に戻る。面倒だけど、わりとよくあることだった。
風もないのに、潮の匂いがした。ここからでは見えないけれど、自転車を30分ほど走らせれば海が見える。これといって特徴のない街だけれど、夏になれば、例年なら海水浴客が増えるころだった。でも今年は、海水浴自体、禁止されている。
灰で汚染された海に、ほとんど魚はいない。生きていても有害物資を含んでいるとかで売り物にならず、多くの人が仕事を失い、街を出て行き、あるいは絶望して死の海に身を投げた。そんな海で泳ごうなんていうのは、もはや自殺行為でしかない。
この街はもう終わりだろう。うちの自転車屋も、学校も、バイト先のコンビニも何もかも、今まで必死に守ってきた生活が、どんどんできなくなっていく。

『いつか大人になったら、その桜を一緒に見よう』

イノリとそう約束したのは、4年前のことだった。
いつかなんていうのが約束と言えるのかどうかはわからないけれど、中学生だった俺はたちにとって、地元を離れるのは、そう簡単なことではなかった。
その頃、ばあちゃんが重い病気をしてほとんど寝たきりで、家を空けることができなかった。高校生になってすぐにバイトを始めた。進学する気はなかったから勉強はそこそこでよかったけれど、だからといって友達と遊んでいる余裕はなかった。
だから、「大人になったら」そういう言い方をした。
大人になったら、何かが変わると思っていた。仕事をして、お金をもっとたくさん稼いで、自分で好きなところに行って、好きなことをして、会いたい人にも自由に会いに行けるはずだって。
あと3ヶ月で18になる俺は、中学の頃よりはほんの少し大人になった。
今思えば、なんてガキっぽい口約束だったのだろう。
「いつか」なんて、「大人になったら」なんて。
子どもだから何もできないことの、言い訳でしかなかった。現状から逃げたいだけの言葉だった。
ようやくそれを思い知らされた。
18歳を前にしても、世界が終わりかけていても、結局俺は、どこにも行けないままだ。