翌日。俺はひとりで写真を取りにいった。
ふたりで現像した写真を見て笑いたかったのに、イノリはもう隣にいない。
もう、どこにもいない。
何をする気力もなかったけれど、それでも、どこかでイノリの面影を探していた。
相変わらず薄暗い扉を開けると、田中さんはやっぱり椅子に座って居眠りをしていた。おそらく1日中その体制で寝ているから、こんなにも背中が曲がってしまったのだろう。
「あとこれも、お願いします」
出来上がった写真を受け取る前に、俺はインスタントカメラを差し出した。自分たちが撮った7枚、ああとの23枚はまだ知らない誰かの写真。
1時間くらいかかるというので、俺はカメラを預けてあたりを散歩した。
イノリともよく散歩をした。川べりや丘までの道、なんでもない畦道や住宅街や裏びれた商店街。太陽が見えなくても、終わりゆく世界でも、隣にイノリの笑顔があれば、それでよかった。
それだけで、充分だったのに。

「いい写真じゃ」
と田中さんは首を前にだして鳥の合図みたいにうんうんと頷いた。
「そう、ですか」
昨日も、まだできていないのに、まるで実物を手にしているように、田中さんは何度もそう繰り返した。
昨日のことを思い出して、それが随分今とは遠い場所にあることに気づいてしまう。
過去になんてしたくないのに、時間は人の意思に関係なく、どんどん過去になっていく。幸せな記憶も、辛い記憶も、平等に、過去の遺産になっていく。
それがどうしようもなく哀しかった。

俺は出来上がった写真を見るのを躊躇った。自分から来ておいておかしな話だけど、情けないことに、怖かったのだ。もうすでに過去になってしまったイノリとの記憶を、改めて目にすることが。
それは、イノリがここにいないと認めることになる。
「人の記憶なんてあてにならんよ。たいていは自分の都合のいいように変換されていくもんじゃ。女房は美人だったとかな」
田中さんは冗談まじりにそう言った。
「だから写真を撮って覚えておくんじゃろう。写ってるもんは勝手に変えれんからのお」
「そうですね」
と俺は頷いた。
人の記憶は、消えることはない。だけど、時間とともに変化していく。それは悪いことじゃないけれど、変わらないものもあってほしい。
写真を受け取った。
インスタントカメラのフィルムは全部で30枚。そのうち23枚は、カメラの元の持ち主であろう人物が写っていた。全て若い男女の写真だった。その顔に見覚えはあったが、あえてスルーした。本人だって、俺に見られたくはないだろうし。
俺が見たいのは、残りの7枚だけだった。ただひとりだけの面影を探していた。
そこに、イノリはいた。

1枚目。丘の上で撮った写真。そのときにカメラを拾って、軽い気持ちで写真を撮った。

『いくよー。あ、もうちょい右』
『えー?わかんないよ』
『たぶんこの辺だって』
『たぶんね』

慣れないインスタントカメラを掲げてシャッターを切った。
『確認できないって、なんか不便だよね』
とイノリは言った。
『現像するまで楽しみにしてるのがいいんだって、父さんが言ってた』
と俺は言った。
するとイノリは、新しいおもちゃを手にした子どもみたいに目を輝かせて、そっかあ、と言った。

『このカメラ、私が持ってててもいい?』

それから、カメラはイノリが持っていた。
俺の知らないうちに、残り3枚になっていた。
いつの間に減ったんだ?と不思議に思っていたら、
「……隠し撮りかよ」
俺の写真ばかりだった。大事に撮らなきゃとか言ってたくせに。横顔とか、後ろ姿とか、俺ばっかり撮ってどうするんだよ。
それから、旅行カップルみたいに、交代でお互いを撮りあった。これは隠し撮りじゃないからちゃんと笑ってる。

『あと1枚……』

自分で撮ったくせに、若干落ち込んでいるイノリがなんだかおもしろかった。
だけど、イノリは、最後の1枚を撮ることができなかった。
あと1枚は、俺が撮った桜の写真だった。
イノリがいなくなったあと、その光景を、せめて焼き付けておきたくて、ほとんど無意識にシャッターを切った。4年前の夏、イノリが奇跡的に咲いていた桜を見て思わず携帯を構えたのも、こんな心境だったのかもしれない。
満開の桜の木の下に立つイノリを想像した。ひらひらと花びらが舞い、地面に落ちる。地面を春の水彩画のように淡い薄紅色に染めてゆく。
その幻想的な景色を、空気を、色を、音を、そこにある全てを、そんなことできるわけがないとわかっていても。
ただ、焼き付けたかった。頼りない自分の頭の中だけじゃなく、いつまでも変わらないものとして。

「一緒に撮ったの、結局最初の1枚だけじゃん……」

いや、まだだ、と思った。最後の1枚は、べつのひとまわり大きな封筒に入っていた。
これが、最後のーー
さすがに、耐えきれなかった。それを目にした途端、我慢していたものが堰を切ったように溢れだしてきた。

だって、ちゃんと、夫婦に見えたんだ。

たった3ヶ月前に初めて会ったなんて思えない、ずっと昔から手を繋いで歩いてきて、ようやく一緒になれたふたり。少しはにかんで、でもぴたりとくっついて、なにがあっても離れないと強く誓いあったふたりに。
突然、声をあげて泣きだした俺を、田中さんはなにも言わず、椅子に座ってじっと見つめていた。
わかっているつもりだった。いつかそのときがくることを、覚悟していたつもりだった。

『私たち恵まれてるよね』

とよくイノリは言った。

『うん、恵まれてるな』

と俺は頷いていたけれど、その言葉のほんとうの意味を、わかっていなかった。
互いに想いあっていても、結ばれることなく死んでいく人たちのことを、イノリは言っていたのだ。
自分の体が自分のものでなくなっていくことに気づく暇もなく、何かを後悔するだけの時間もないまま、灰と化した人たちが山ほどいる。やり残したことがあっても、それを実行する時間すらなかった人たち。
そういう人たちに比べれば、俺たちはきっと、随分恵まれていた。出会って、恋をして、気持ちが通じて、ついには結婚までした。これ以上の幸運がどこにあろう。
だけど、そんなことは今の俺には関係がなかった。恵まれてるとか恵まれてないとか、他の人たちと比べてどうとか、そういうことじゃない。
イノリはもうここにいない。それが全てだった。
写真の中にいても、隣にはいない。もう2度と、手を繋ぐことも抱き合うこともできない。
俺は悔しくて、悲しくて、どうにもできなくて、ただただ泣き続けた。
覚悟なんて、全然できてなかった。大切な人を失う覚悟なんて、最初からできるはずがなかった。
どれだけ時間があっても、君は一瞬で俺の目の前から、消えてしまったのだ。



「短い間でしたが、ありがとうございました」

俺は地元に帰ることにした。
イノリと会うために、家を出てこの町に来た。もうイノリはここにいないのだから、いる理由がなくなってしまった。

ーー帰ろう。

とても自然に、そう思った。もう2度と顔を見れないかもしれないと思っていた家族のもとへ帰ろう、と。
「そう、気をつけてね」と紫乃さんは送りだしてくれた。
「はい、ありがとうございます」と俺は頭を下げた。
紫乃さんの後ろで、桃香が気まずそうに立っていた。最後まで、桃香と話すことはほとんどなかった。
イノリは許していたみたいだけれど、やっぱり桃香のしたことは許されることじゃない。人を殴って怪我させて、そのまま放置するなんて。殴られた本人のイノリは普通に接していたけれど、それはイノリだからだ。
許したわけじゃない、けれどーー、

「これ、落ちてました」

俺は写真入りの封筒を手渡した。

「え?」

驚く桃香に、俺はぶっきらぼうに言った。
「写真です。勝手に現像させてもらいました」
桃香は、それではっと気づいたようだった。
彼女が落としたのはカメラだけど、中身は同じだ。写真に写っていたのは、桃香と、知らない男だった。
男は桃香よりも随分歳をとって見えた。もしかしたら、人には言えない関係だったのかもしれない。もしかしたら、もうこの町にはいないのかもしれない。事情を訊くつもりはなかった。
写真のふたりは、幸せな恋人な恋人同士に見えた。それが全てだと思った。

「捨てたりしないで、大事にとっておいてください」
「……ありがとう」

桃香は、封筒を胸に抱きながら言った。

藤也が地元まで送っていこうかと言ってくれたが、俺は断った。

「あのボロ車で長旅とかきつそうだし」
「人の愛車にケチつけんじゃねえ」
「でも、ありがとう」
「親父さんたちによろしくな」

じつにあっさりした別れ方だった。それでいいと俺は思った。
山を越えてボロボロになった自転車を修理して、なんとか乗れる状態にした。父さんがわざわざ修理道具を持たせたのは、もしかしたら、俺が帰りたくなったときに帰れるように、だったのかもしれない。
これから丸一日、いやもしかしたら何日もかけて、安物の自転車ひとつで家を目指す。
無事だろうか、と思った。父さんやばあちゃん、たいして仲良くもなかったクラスメイトの顔まで順に思い浮かべた。みんな無事だといい。無事であってほしい、そう願いながら、自転車を漕いだ。
夜になると、外では寝られないほど冷え込んでくるので、空いている人の家に悪いと思いつつ勝手にあがらせてもらった。どこもかしこも空き家だらけで、電気もガスも水道も通っていなかった。
真っ暗な冷たい部屋で、懐中電灯の明かりだけをつけて、俺はリュックに詰め込んだ食料を少しずつ食べた。お腹が満たされると、あとは残して布団にくるまった。誰のものかもわからない布団だけれど、そうしないと凍えそうだった。
11月に入ったばかりなのに、夜の気温はすっかり真冬そのものだった。それも、日に日に下がっていくのが体感でわかる。
あと少ししたらーーほんとうの冬がやってきたら、どうなってしまうのだろう。そんなことを少し考えて、やめた。
先のことなんて、考えたところで誰にもわからない。



帰り道は、ほとんど誰にも会わなかった。
たまに人に遭うと感激されて、もっと話そうと引き止められたが、俺は先を急いだ。嫌な予感がした。予感はやがて確信に変わっていった。みんな無事だといいなんて、甘すぎたのだと、思い知った。
俺たちがいた、あの町が特別だったのだ。
あの町の外は、もうこんなにもーー

あの町の人たちは言った。

『ここは行き場を失くした人が集まるところなのよ』

『この町にはみんなの悲しい気持ちがあふれてる』

『この町には外から人がどんどんやってくる』

他に行く場所がなかったから。
他の場所では暮らせなかったから。

『玉手箱とかじゃないよな?』

『大丈夫だよー、煙とか出てこないから』

これはね、

『これは、私の宝箱なの』

いつかの会話を思い出す。ついこの間、でももう手の届かないとおい記憶。
箱、と唐突に思って、リュックから文庫本ほどのサイズの白い箱を取り出してみる。箱はしっかりと、案外頑丈に蓋が閉められていた。
誕生日の日に開けてね、とイノリは言った。イノリの誕生日はまだ少し先だった。
まるで呪いだ、と俺は思った。
どんなに絶望的な状況でも、苦しくて死にたくても、その日まで生きていなきゃいけない。そういう呪いを、イノリは俺にかけたんだ。
開けてみたい気がしたけれど、我慢して先に進んだ。
ここで開けてしまったら、ほんとうの浦島太郎になってしまう気がした。




ガラリと懐かしい扉を開けた。つんと油の匂いがした。狭い店内に並ぶ自転車の間を縫って、2階へと続く階段をのぼった。
「父さん、ばあちゃん……」
2階から、テレビの音が聴こえてくる。ばあちゃんが好きだった番組の音楽だ。
がちゃがちゃと物音がする。父さんがいつもの下手くそな炒飯でも作ってるのかもしれない。
俺は階段をのぼって、2階にたどり着く。どうしてか、いつもよりその距離が長く思えた。
顔を出すと、父さんとばあちゃんが振り返って目を丸くした。

「由貴!?」
「帰ってきたのかい……!」

うん、と俺は頷いた。帰ってきたよ。
「おかえり、由貴」
「うん、ただいまーー」
手を広げて、触れようとした瞬間、

「え……?」

ふたりとも、灰になって消えた。
「嘘だろ……」
だっていま、ここにいたのに。
おかえり、って言ったのに。

ーー違う。
最初から、とっくにいなくなってたんだ。

ばあちゃんはもうとっくに元気に動きまわったりできなかったし、父さんだってあんなに表情豊かじゃなかった。
そうであってほしいという、俺の願望だった。ふたりとも元気でいてほしい、どうか無事で。

静かな部屋に、呆然と立ち尽くす。もう、何もかも、なくなってしまったのか……。

くぅん、とかすかに鳴き声が聴こえて、俺ははっと振り返った。
白いモップみたいな毛をしたリムが、隣の部屋からひょこりと顔をだした。

「リム、待っててくれたのか……?」

くぅん、とリムが寂しげに声をあげた。
触れてみると、柔らかく温かな感触がした。懐かしい毛の匂い。
ああーー幻じゃない。

「ありがとな……」

寂しかっただろうに、それでも、俺の帰りを信じて待っていてくれたんだ。
俺はごわごわしたリムの毛に顔を埋めて泣いた。リムはもうなにも言わなかった。
袋入りのドッグフードを皿に開けてやると、リムはものすごい勢いで食いついた。何日食べたいなかったのだろう。太り気味だった身体はやせ細り、触れると骨の形までわかるほどだった。
俺はそばに座って、ぼんやりとその様子を眺めていた。
これからどうしようか、そう思って、まだやっていないことがあるのを思い出した。
開けよう、と思った。あの箱を、開けよう。
イノリの誕生日はまだ先だけれど、そのときまで自分が生きている保証はどこにもない。
だったら、今がきっとそのときなのだと思った。
ぴたりと頑丈に閉まっているように見えたその箱は、少し力を込めれば簡単に開いた。
中には、携帯と手紙、それからイノリがいつも身につけていた、白い真珠のような珠が連なったブレスレットが入っていた。
電波の繋がらない、本来の役目を果たすことのない携帯。それでもイノリはいつも、バッグに入れて大切そうに持ち歩いていた。
そっと手にとってみると、イノリの感触がした。そんなはずはないのに、まだ少し熱をもっている気さえした。



見てもいいのか、まだだめなのか、本人がいなければ、訊くことも叶わない。だけど、
ーーここに入ってるってことは、見てもいいってことだよな?
俺は勝手にそう解釈して、イノリの携帯を見ることにした。

『この携帯はね、私のすべてなの』

いつかイノリが、そう言っていた。
『そのうち、ユキにも見せてあげるね』
すべてなんて大げさな、とあのときは思ったけれど、嘘ではなかったのかもしれない。
イノリの携帯を見て、俺はそう思った。

『もういや。こんな家大嫌い。口うるさいお母さんも、仕事しか興味がないお父さんも、優等生のお姉ちゃんも。早く大人になって家を出たい。ひとりでも生きれるようになりたい』

イノリは携帯に、ほとんど書きなぐりの日記のようなものをつけていた。
嫌いとか煩いとか、人に対して悪い言葉を決して使わなかったイノリ。それはきっと育ちのよさからで、いけないことと教えられてきたからだろう。でも、ここに書いてあることが、誰にも言うことのなかったイノリの本音なのだろうとわかった。
4年前ーー俺たちがぎこちないやりとりを始めて、少し経った頃だ。
その頃の日記には、ほぼ毎日、ネガティヴな言葉が綴られていた。
苦しい。辛い。窮屈。明日がくるのが嫌。
それがあるときから急に、目に見えて少なくなっていた。

『課外活動の山登りで、道に迷ってしまった。でもそのときに奇跡みたいな夏の桜を見つけて、見惚れてしまった。誰にも信じてもらえなかったけど、ひとりだけ信じてくれる人がいた』

『ユキはまじめに私の話を聞いてくれた。笑わないで、バカにもしないで、それどころか、いつか一緒に見ようって。嬉しかったなあ』

『会いたいっていう気持ちと、会うのが怖い気持ち。ユキはどんな気持ちで言ったんだろう』

『やっぱり、私たちは会わないほうがいいのかもしれない』

喜んだり、悲しんだり、失望したり、怒ったり。
イノリがそんなにも迷っていたことを、俺は初めて知った。家を出たのは悩んで悩んで悩み抜いた結果だったこと。イノリにとってそれは、とても簡単にできるような決断ではなかったこと。

『ユキとの会話は楽しい。ずっとこんな日が続けばいいのに。 』

『ユキの住む町に行ってみたい。どんなところに住んでいるんだろう』

いつか行ってみたいな、とイノリは言った。
ーー行けるよ。
君がそう望むなら、いつだって、どこにだって行けるよ。もう君は、籠の中の鳥なんかじゃないんだから。

『もう何日も太陽が出ていない。異常気象ってテレビで言っていた。なんかこわいな。どうなっちゃうんだろう』

今年のはじめ。世界が、ゆっくり終わりに向かって進み始めたころ。そこからぐんぐん灰害が加速していった。

『病気だって言われた。人より灰になるスピードが違うんだって。よくわからないけど、私はもう長くないみたい』

『サユミと昼間の屋上で線香花火をした。勝負は私の勝ち。神さま、願い事叶えてくれるかなあ』

『ユキと連絡が取れなくなった』

『待ってるよ』

『お返事ください』

7月の、あの霧の日。電波が途切れ、電話もメッセージを送りあうこともできなくなった。

『ねえユキ』


『会いたい』

会いたい。会いたい。会いたい。


『ーー会いたい。』

霧の日以来、一度だけ、それと同じメッセージが届いたことがあった。ほんの一瞬だけ、電波が入ったのだ。
何もかもが想定外だった。
こんな状況を予想できるはずがなかったけれど、“そのとき”のための待ち合わせ場所だけは、ずっと前に決めていた。

俺は薄暗い部屋で、ひたすら画面をスクロールしてイノリの日記を見つめた。
頭がぼんやりしていた。泣きすぎたのかもしれない、と思った。
それからもイノリは、自分や自分以外の誰かに向けて、決して届くことのない思いを綴り続けた。

『私たちは恵まれている。想いを伝えられないまま、後悔する暇もないまま死んでいく人たちがたくさんいるのに、私たちは両思いになれたから』

『ありがとう、って言いたい。ユキや紫乃さん、藤也さん、田中さんや桃香。みんなみんな、出会えてよかった』

『紫乃さんと桃香を見て思った。どんなに離れてても、家族は家族なんだって。大嫌いだったはずの、あんなに離れたくて仕方なかった家が、すこし恋しくなった』

『ほんとにもう、いよいよ、最後なのかもしれない。自分のことだから、よくわかる。体の中で起こってる変化。すこしずつだけど、自分の体が自分のものでなくなっていく感覚……』

『怖いよ……』

『覚悟はもうできてる。だけど、ユキの中から自分が消えてしまうのが、どうしようもなく怖い』

『もうすぐユキの誕生日。おいしいご飯を食べて、食後にあったかいココアを飲んで、その日だけは悲しいことや不安なことは何も考えずに楽しむんだ』


最後ーー10月30日。

『私、ほんとに、ユキのことが大好き』

『私と出会ってくれて、好きになってくれて、ありがとう』

『ユキのそばにいられて、私は最高に幸せでした』

それから、

『もしできたら、私の誕生日にこの手紙を家族のもとに届けてください。その時にはきっと、私はもういないから。嫌になって出てきた家だけど、追い出されるかもしれないけど、やっぱり、家族だから。わがまま言ってごめんね』

イノリはきっと、毎日寝る前に、携帯をこの箱にしまっていたのだろう。
自分がいついなくなってもいいように。

「全然わがままじゃないよ……」

俺は涙で濡れた目元を拭いながら、つぶやいた。
もっと、とんでもないわがままを言ってくれたってよかった。
どんなに無茶なことでもよかった。
もっともっと頼ってほしかった。どんなのぞみでも、ひとつ残らず叶えてみせたかった。
俺は、君の喜ぶ顔が、何よりも好きだったんだ。
俺は封筒を手にとった。

ーーこの手紙を家族のもとへ届けてください。

それが、イノリの最後のわがまま。それだけは、何がなんでも絶対に、叶えなければならない。