あたたかい、と思った。すごく安心する。大きくて優しいなにかに包まれているような感じがする。
ユキだ、とすぐにわかった。こんな優しさをくれるひとを、私はひとりしか知らない。
薄く目を開けると、目の前でユキの頭が揺れていた。もう少しだけ目を開けると、まわりの景色が見えた。見覚えのある山道だった。
どこに向かっているのかすぐにわかって、私は胸に熱がこもりはじめるのがわかった。真っ暗な部屋にランプが灯るように、ぼうっとその灯りは私をあたためてくれた。

「ユキ」

と私は小さな声で呼んでみた。背中が反応して、ユキが歩みを止めた。
「イノリ?大丈夫か?」
私をおぶったまま、ユキが顔だけで振り向く。
大丈夫なのかどうか、私にはもうわからない。感覚がなかった。もしかしたらそれが、大丈夫じゃないってしるしなのかもしれない。
だけど不思議と、こんなに冷たくなってしまっても、温度だけは感じられるんだ。ぴったりとくっついたユキの背中は、すごくあたたかくて、ずっと抱きついていたかった。
大丈夫と言うかわりに、私は言った。
「ユキ、ありがとう」
「しっかりつかまっててよ」
とユキはしっかり私を支えてくれながら言った。掴まる力は、私にはもうなかった。
「ごめんね、重いよね……?」
「全然」
ユキは前を向いたまま言った。
「走ってもいけるくらいだよ」
「ユキ、なんか逞しくなったね」
「そう?」
「ちょっとだけね」
「ちょっとかよ」
ユキが笑うと、背中が揺れた。
私は笑う元気はなかったけれど、その背中に触れていると、一緒に笑っているような気がした。

それから私たちは、思い出話をした。思い出といっても昔のことじゃなく、私たちが出会った8月のはじめから10月の終わりまでの3ヶ月間の出来事だ。
家を出て、待ち合わせ場所の教会で初めて会ったこと。そのときユキの格好があまりにボロボロでびっくりしたこと。ほんとは最初から起きてたんだ、とユキは暴露した。
「タイミングがつかめなかったんだよ」
とユキは照れ臭そうに白状した。
恥ずかしかったけれど、大切な思い出になった。
いろんな人に出会って、助けてもらったこと。ここに連れてきてもらうところから、仕事をもらって、食べるものや住む場所を与えてもらって、全部まわりの人の助けがなければできなかったことだった。
どんどん不自由になっていく世界で、今まで知らなかった人のあたたかさや優しさを知った。
「私たち、恵まれてるよね」
私は言った。
「うん」
とユキが少し息を切らしながら頷いた。
「恵まれてるよな、ほんと」
これまでに何度も繰り返しその話をしていたけれど、ほんとうにそう思うから、何度でも言ってしまう。
いい人たちに囲まれて、助けてもらって、私たちは生きている。ふたりだけなら、とっくにどこかで飢えていたに違いない。
私の病気の進行速度が人よりずっとゆっくりなのも、ユキと出会って恋に落ちるための特別猶予だったのかもしれない、そんな気さえする。
私たちは運がいい。今までずっと我慢してきたぶん、最後の最後でツキが巡ってきたのかもしれない。
短いあいだに経験した奇跡みたいに輝くたくさんの思い出たちを、私たちは大切に語りあった。

私にはもう感覚がなかった。それは目覚めたときにはっきりとわかった。

ーーああ、もういよいよ、そのときなんだ。

もう体の中のほとんどが灰に侵されて、正常に機能していないのだと思う。
それでも、私はまだ、恋をしている。
大好きな人のぬくもりをこの体で感じることができる。
それだけが、私をこの世界につなぎ止める力になっている。

ーーそのときだった。

はらりと、目の前に小さな紙切れみたいなものが落ちてきた。それはふわりふわりとゆっくり舞いながら、ユキの首すじに落ちた。

「桜……」

私は目を見張った。小さな、淡いピンク色の桜の花びら。
「え?」
ユキが肩を上下させながら短く返す。
「ユキ……桜だよ……」
うそ、とユキが驚いて顔をあげたけれど、相変わらず鬱蒼とした木々が囲っているだけだった。
でも、わかる。なんとなく、近づいていると感じる。
「もうすぐだ」
「うん……」

ザッ、ザッ、ザッ……

やがて、行く手を阻んでいた木々のブラインドが、さっと開けた。
古くて小さな丸太小屋に、それを見守るようにそばに立つ桜の木。

「ーー咲いてる!」

ユキが叫んだ。私は言葉を発することもできずに、目を見開いた。
4年前の、あのときと同じだった。
ひらり、ひらりと、風もないのに花びらが舞って、土の上に落ちていく。薄紅色の絨毯の一部になる。ユキの頭にまたひとつ、花びらが舞い落ちる。
4年前の、あのときと同じだった。
道に迷って不安で途方に暮れていた私の前に、突如現れた夏の桜。奇跡みたいな光景だった。自分の足で歩いてきたのに、夢でも見ているような気がした。
その桜は、毎年春に見られる桜とは、どこもかしこも違っていた。詳しい種類はわからないけれど、街でよく見かける桜とは、まるで別物だった。単にきれいなだけじゃなく、まやかしのような妖艶さがあった。
今年の春は、桜を見られなかった。だから、これが今年初めての桜だった。
「今年初のお花見だ」
ユキが笑いながら、そっと私を下ろして、桜の絨毯に腰を下ろした。
「そうだね」
ユキの肩に、私はこつんと頭を預けた。同じことを考えていたんだ、と胸がほころんだ。
「ユキ、頭に桜ついてる」
「そっちも」
私たちは顔を合わせて、ぷっと笑った。
そのまま、舞い落ちる桜をじっと見つめていた。

『もう一度、あの桜が見たいな』

何気なく発した私のその言葉が、私たちの距離を近づけるきっかけだった。

『じゃ、一緒に観に行こう』

と、ユキは信じられないほどの気軽さで言った。
それって、どういうこと?
一緒にって。私たちが、会うってこと?
お互いの顔も本名も居場所すら知らない私たちが、会う?
4年前の私には信じられなかった。こんな状況を。私がそんな大胆なことをすることになるなんて。
無理だよと言ったら、それならいつか大人になったら一緒に見よう、とユキは言った。
ここに来るまで、たくさんたくさん遠まわりをした。
ほんとうに一緒に見られるときがくるなんて、夢が現実になるなんて、思いもしなかったんだ。

ーー見れたよ。

4年前の自分に向かって言った。
ちゃんと見れたよ。しかもね、好きな人が私を背負って連れてきてくれたんだ。こんなに幸せなことってないよね?

「よかった……」

大好きな人がこの世界に生まれた日に、こんなに美しいものを見られてよかった。
こんな灰色の世界になっても、まだ美しいものが残っていてよかった。
最後に、君と一緒にこの景色を見られて、ほんとうにーー
ありがとう、と、私は言った。けれどそれは、声になったかどうかわからなかった。

「イノリ……」

ずり、と私の頭がユキの肩を滑り落ちる。もう預けている力もなかった。ユキが哀しげに私の肩をそっと抱き寄せた。私はユキの胸に頭を埋めた。
どくん、どくん、どくんーー

「心臓の音が聞こえる……」

動いている。ユキがここにいる証。生きている証。

「うん。俺も、聞こえるよ」

とユキが言ったけれど、それはきっと嘘だった。
ちゃんと生きてるのに、どきどきしてるのに、なのに、私の耳に届くのはユキの心臓の音だけだった。
自分が生きているのか、死んでいるのか、それすらもうよくわからない。

だったら、この時間はーー

「ねえ、ユキ」

この時間は、きっと神様が私に与えてくれた、最後のプレゼントなんだ。
「うん?」
「桜の花言葉って、知ってる?」
覚悟を決めたら、魔法みたいに滑らかに声を出せた。
いや、とユキは首を振る。
「優美、美麗、あなたに微笑む」
それとね、
「外国の花言葉で、“私を忘れないで”っていうのがあるんだって」
ずっと前に、小説の中に出てきた言葉。
タイトルは忘れてしまったけれど、なんだか、切ない花言葉だな、ってそのときはなんとなく思ったのを覚えている。

“私を忘れないで”

誰かを想う気持ちを、花言葉に託して。

「忘れないでね」
「忘れるわけないだろ」

ユキが涙声で言った。
忘れないで。私がいなくなったあとも、ずっとずっと、覚えていて。
だけど、だけどねーー
「だけどもし、世界に終わりなんてなくていつか正常に戻る日がきたら、そのときは、忘れていいよ」
「イノリ、なにを……」
「忘れてほしいの」
私は言った。声が小さくなっていく。伝えたいことが、まだまだたくさんあるのに。

「忘れて、ユキに幸せになってほしいーー」

言い終える前に、ユキの唇に口を塞がれた。

「ばか」

とユキが唇を離して言った。
「そんな先のこと、考えられるかよ」
それから、思いきり抱きしめられる。

「好きだよ、イノリ」
「うん……私も……大好き……っ」

ああーー私、まだ、恋してる。

こんなに、こんなに命が尽きそうになっても、最後まで君を愛しいと想う。

「イノリに出会えてよかった……ありがとう」
うん、うん、私は頷く。
ありがとうーー出会ってくれて。好きになってくれて。愛する気持ちを教えてくれて、

「愛してる」

私は言った。
俺も、とユキは言った。

「俺も、イノリを愛してる」

ほんとうだ、と私は思った。身体の内側から、少しずつなにかが変わっていく感覚。私は人よりその速度が何倍も遅くて、全然気づかなかった。少しの変化なら目を逸らすことができた。でも、もう、はっきりとわかる。
自分が、だんだん人ではなくなっていく感覚。この身体をつくる皮膚が、肉が、血管を流れる血が、無機質なただの灰に変わってゆくーー
伝えたい言葉がいっぱいあるのに。
まだまだ君と一緒にいたいのに。
時間がぜんぜん足りない。
どれだけあっても足りない。
もっと、もっとって、
だけどもう私は、それを伝える声すらもたない。
ねえユキ、
私は、最後の力を振り絞って唇をあわせた。

ーー大好き。