引越しの準備は30分ほどで終わった。
それぞれ持ってきた少量の荷物と、紫乃さんやいろんな人が持ってきてくれた食べ物やキッチン用品やちょっとした家具や小物。とくに紫乃さんの家の倉庫にはなんでもそろっていた。使わなくなった2人がけのソファ、折りたたみ式の小さな円テーブル、3段のカラーボックス。これだけで部屋がひとつできそうなくらい。
こんなに持っていっていいんですか?と心配になって訊くと、「いいのよ、あたしたちは自分の手に持てるだけで充分だから」と紫乃さんは掘り出し物セールみたいに気前よく渡してくれた。
日が落ちないうちにと藤也がトラックを出してくれて、荷物を押し込んだ。ここに来るときに乗せてもらった、壮絶な闘いをくぐり抜けてきたようなあのオンボロの軽トラだ。
「……いまだにお前が運転してるのが見慣れないよ」
ユキが納得いかなさそうにぼやいた。
「ごめんねー、こんなボロ車でも乗りこなせちゃって」
と藤也が笑いながらエンジンをかける。
ゴウンッ、と今にも壊れそうな危険な音がして、
「じゃあお先ー」
と手をあげてガタゴト揺れながら走り去っていく。
「これからも手伝いにきてよね。祈ちゃん、頼りにしてるんだから」
紫乃さんが店先に出て送り出してくれる。
「はい、ありがとうございます」
私とユキは頭を下げた。紫乃さんには頭を下げても足りない気がした。
「寂しくなるわねえ」
「すぐそこですから」
私は目と鼻の先のアパートを指して笑った。
「それもそうね」
と紫乃さんも笑った。
桃香は店番をしていて顔を出さなかった。やっぱりまだ、お互いに気まずいところがあった。
「じゃあ、いってきます」
私とユキが言って、
「いってらっしゃい」
と紫乃さんが笑って手を振った。

お店を後にしても、私はまだ緊張していた。目と鼻の先のアパートが近づいてくるにつれて、心臓の音が大きくなるのがわかる。
もう決まったことだし、すでにトラックは行っちゃったし、今さらもうちょっと待ってなんて言えるわけないけど、心の準備がちっともできていない。
ユキと初めて会った日から、こんなことばかりだ。
毎日どきどきしていて、休まるときがない。

ーーでも、これからは、もっとどきどきの連続なんだろうな。

「イノリ?どうかした?」
「ううん、なんでもない!」
私は小走りでユキの隣に並んだ。



こぢんまりとした白に近いクリーム色の壁のアパート。よくある外階段のある2階建てで、各部屋にベランダがあり、1階の部屋の前には柵で仕切られた小さな庭が設けられている。入口横の木には電飾みたいに小さな蜜柑がぽつぽつと身をつけている。大家さんが植物が好きな人なのかもしれない。1階に4つあるうちのいちばん奥が私たちが住むことになる部屋らしい。
心の準備はさておき、住みやすそうなところだな、と私は外観を見て安堵した。
だけど、玄関のドアを開けた瞬間に、その安堵はどこかにいってしまった。
「はい、ここが今日から君たちの新居になります」
と藤也が不動産屋みたいににこやかに言った。
私は、事前にどんな部屋なのか確認しておかなかったことを後悔した。
だって、まさかーーいや、このアパートのサイズからしてそれはむしろ容易に想像できたはずだったけれど、

「えっ、ワンルーム……?」

どう見ても、部屋はひとつしかなかった。聞いていた話と違う。
隣を見ると、ユキも同じく絶句している。
「おい藤也」
ユキが冷ややかに言い放つ。
「はいなんでしょうお客様?」
藤也の不動産屋ごっこはまだ続いているらしい。家賃を払っているわけじゃない、だから文句を言える立場でも、ないんだけど。
「部屋がひとつしかないように見えるんだけど?」
「リビング、トイレ、風呂、ほら3つ」
「トイレと風呂は部屋じゃない!」
「あ、それは失礼」
「…………………」
とんだ悪徳業者だった。
「ま、いいじゃん。どーせ君たちまだチューもしてないんだろ?この機会に思う存分イチャついちゃってよ」
「…………………!!!」
「……お前、オヤジ臭い」
「まあ君たちより年上だし?」
このひと部屋で、これから毎日、ユキと一緒に暮らすことになる……。
想像しただけで、頭から足のつま先まで、お風呂に入りすぎたときみたいに火照ってしまう。
それからしばらく、お互いに目を合わせられなかった。



もともとの部屋の間取りは一応、四畳半二間だった。が、前の住人によって真ん中の仕切りはきれいに取り払われていて、実質ひと部屋になっていた。玄関側に小さなキッチンが付いていて、玄関を挟んで反対側がトイレとお風呂。たしかに、トイレとお風呂は別々だ。フローリングの床は歩くとギシギシと鳴った。
部屋の奥には2人がけのブルーのソファ、緑色のカラーボックスには2人の本やマンガが並んでいる。
部屋の角に、前の住人の忘れ物がひとつ置いてあった。15インチほどの小さなテレビだ。今はもう何も映さない、黒い塊と化したテレビ。
藤也が持って行くと言ってくれたけれど、断った。ここに誰かが住んでいたということを、なんとなくでも感じていたかった。
その人がどんな人なのか、今どこで何をしているのか、生きているのか死んでしまったのか、私たちはその人について何も知らないけれど、それでも。
「いい部屋だね」
と私はぐるりと見回して言った。小さいけれど、大事に使われていたのがわかる。
「うん、いい部屋だ」
とユキが確認するみたいに繰り返した。
もちろん、お互い視線は宙を彷徨わせたままで。

荷物が少ないおかげで、片付けはあっという間に終わってしまったから、4時を過ぎたばかりなのにもうやることがなくなってしまった。
「わ、わたし、ご飯の準備しようかな!」
「手伝うよ」
「い、いいよ、このキッチン、そんなに広くないし」
「そう?じゃあ俺は風呂掃除でもしてくるよ」
「うん、お願い」
私はとりあえず、夕飯のことだけを考えることにした。夕飯はオムライスに決定。というかそれしか作れない。そして紫乃さんが、3食分くらいオムライスができる材料をダンボールに入れてくれていた。
私はキュッと髪をポニーテールにして、お店で使っている黒いエプロン(なぜか3つもある)をつけた。
キッチンに立つ自分の後ろ姿がユキからどう見えるのか、気になってしまう。余計な考えを振り払うように、私は無心になって玉ねぎを切り刻んだ。紫乃さんみたいに均等な大きさには切れないけれど、みじん切りのやり方すらわからなかった最初に比べれば、随分ましになったと思う。
作り方は、紫乃さんに教えてもらった通りにした。慎重に、抜かりなく。ひとつでも手順や分量を間違えば、失敗してしまうかもしれない。
初めての手料理は、やっぱりおいしいと言ってもらいたかったから。
玉ねぎとハムで炒めたご飯に卵を乗せる。その上からトマトと茄子をくたくたになるまで煮込んだソースをかければ、完璧なオムライスの出来上がり。ちょっとだけ指先を切ってしまったけれど。完成までに2時間もかかってしまったけれど。それでも初心者にしては上出来だと思う。

お皿を運んで、2人で小さなテーブルに向かいあった。たっぷり時間をかけたおかげで、2人ともお腹はぺこぺこだった。
「いただきます」
と2人でぎこちなく手を合わせて、オムライスを食べはじめる。
「うん、うまい」
ユキは目を丸くして喜んでくれた。
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
熱々のオムライスを頬張るユキを眺めながら、私はじぃんと胸が熱くなった。
私が作った料理を、好きな人が食べている。
こんな日がくるなんて、思ってもみなかった。
まだ出会って1ヶ月も経ってないのに。でも、

ーー4年も我慢したんだから、少しくらい急いだっていいんじゃないか。

ユキはそう言った。そうかもしれない。私たちは、やりとりを始めてから4年間、ずっと遠くにいた。お互いに別々の場所で、想いを育ててきた。
だけど今、ここにいる。同じ部屋で、同じものを食べて、おいしいと言って笑う。
願い事がひとつずつ叶っていく。
あといくつ、叶えられるだろう。
私たちには、あとどれだけ一緒に過ごせる時間が用意されているのだろう。
幸せと不安は、いつだって隣り合わせだ。
「イノリも食べようよ」
「あーーうん」
思わず泣きそうになっているのに気づいて、私は慌てて手を動かした。
「明日のご飯は、俺が作るよ」
「ユキ、料理できるの?」
「簡単なものしかできないけど」
「そっか。ユキは家事してたんだもんね、えらいね」
「べつにえらくないって」
たぶん、いや間違いなく、家事レベルはユキのほうが数段上だった。
私はここに来るまで、ほとんど家事なんてしたことがなかったのだ。

食器を片付けてお風呂に入ってしまうと、今度こそほんとうにやることがなくなってしまった。部屋をキョロキョロ見渡してやるべきことがないか探してみるけど、そもそもそんなに物がないのだ。
諦めて布団に座って、ユキの漫画を読むことにした。
「あ、それ、中盤からめちゃくちゃおもしろくなるから」
「そうなの?」
「自分を裏切った仲間が、じつは影で自分たちを助けるために必死になって動いてて、再会のシーンがぐっと盛り上がってーー」
私は、へえ、とか、すごい、とか、相槌を打っていたけれど、だんだんまったりしてきて、言葉が少なくなっていった。
静かになると、私の鼓動がまたしても忙しなく動きはじめる。

たぶんーー。
たぶん、思っていることは、おなじ。
もっと、近づきたい。

「……消していい?」
「うん」

真っ暗になった。月明かりすらない夜の部屋は、すごく静かで落ち着いていた。
しばらくの間、私たちはその空気を確かめるように、何も言葉を発することなく、じっとしていた。
静寂が、不思議と、全然苦じゃなかった。うるさく鳴り響いていた心臓の音が、少しずつ落ち着いてくるのがわかった。隣にあるユキのぬくもりを、触れなくてもそこにあるものと感じとれるほどに。
隣を向くと、ユキの手が私の首に触れた。そして、首を傾け、唇を寄せて、合わせた。
その瞬間、ほんの少し、涙がこぼれた。涙がユキの鼻に当たった。息つぎをして、そしてまたひかれあう。
好きな人とキスするって、こんなに気持ちいいものなんだ。
触れあうって、こんなに幸せなことなんだ。
ユキの腕が、私の腰を力強く抱き寄せた。



目が覚めてもまだ、夜の余韻が残っていた。目を覚ましたくないような気もするけれど、布団の中にユキのぬくもりを感じて、やっぱり覚めてもいいかも、と思う。
「……あ、おはよ」
じっと見つめていたら、ユキがまだ眠たそうに目を開けた。
「おはよ」
「なに?」
「なんでもない」
私がふふっと笑うと、ユキが照れたように「なにそれ」と笑った。
自然に触れあう肌が心地よくて、もう長く見ていない陽だまりを思い出させた。
幸せだなあ、と思う。好きな人と一緒に朝を迎えられる。今日も、明日も。今ならなんだってうまくいきそうな気がする。
幸せに上限なんてない。今ここにあるものが全てなんだって、実感できる。

朝ごはんは、ユキが作ってくれた。ご飯に野菜のお味噌汁にふわふわの卵焼き。紫乃さんにもらった漬物も添えられている。
「お、おいしい……すごいよ、ユキ!」
「そんなに感動するようなものじゃないよ」
ユキが笑った。
「ほんとだよ」
「それはどうも」
私も頑張ろう、と密かに決意した。

朝の支度をして、一緒に家を出る。だけど行き先は別々だ。
「じゃあ、また後で」
「うん、また後で」
ユキが首を傾けて、優しいキスをした。
またひとつ、夢が叶った。いってらっしゃいのキスのあとは、でも、離れるのが余計に惜しくなった。



にやける顔をどうしても抑えられなかった。
分かれ道でユキとばいばいをして、風見鶏に向かう途中、お店に入って挨拶するときも、オムライスを作るときも。ふとした弾みでにやけてしまう口許を手で押さえても、それでも全身からあふれ出してしまいそうな幸福感。
大好きな人と朝も夜も一緒にいられる。離れたいまでも、肌にユキのぬくもりを感じられる。
これが、そうなんだ。恋をしてるときの特権。
ああ、だめだ、またにやけてしまう。朝からずっとこんな調子で、お昼になる頃についに紫乃さんに釘を刺されてしまった。
「ほっぺたが緩むのは構わないけど、オムライスの卵は緩めちゃだめよ」
実際、少し緩んでいた。……あぶない。
「気持ち悪いんだけど」
と桃香は顔を歪めて容赦なく毒づく。本性をだしたいまでは、初対面のときの可愛らしさはどこにも見当たらない。
桃香は帰ってきてから、お店の手伝いをするようになった。やる気がなさそうに見えても、さすがは紫乃さんの娘。手際のよさな料理の腕は、私とは天と地の差だ。
それにしても、3人でも足りないくらいの仕事を、今まで1人でこなしていた紫乃さんには本当に恐れ入ってしまう。

「今日もお疲れさま。はい、これ今日のぶん」
5時間の労働でもらえるのは、少しのお金とその日のぶんの食材。食材は、キッチンの奥にあるパントリーと冷凍庫から選んで袋に入るだけ持っていっていいことになっている。どれでも持っていっていいと紫乃さんはいつもの気前のよさで言うけれど、お肉や魚が貴重なのはわかっているから、どうしても米や野菜が中心になる。
「おつかれさまでしたー」
「はーい、明日もよろしくねー」
私は桃香から返ってきた肩かけのバッグと食材を入れたビニール袋を手に、お店を出た。



「待って」
いきなりドアが開いて、桃香が顔をだした。
「あんたんち、行ってもいい?」
「えっ?」
唐突な誘いに、私は戸惑った。いや、うちに来るのだから、誘いじゃなくて押しかけ?
「いまから?」
「漫画読みたいって言ってたじゃん。うち山ほどあるから、貸してあげる」
桃香の手には、漫画が山のように入った紙袋があった。
「いいの……?」
桃香の部屋の押入れに、大量の少女漫画が押し込まれているのは知っていた。持ち主の許可なく勝手に読むのは気が引けて、気になってはいたけど開くことはなかった。
でも、私、漫画読みたいなんて言ったっけ?
「あっ」
思い出した。最初に会ったときーー駅前で座り込んで話していたとき、言ったんだ。

『漫画も読ませてもらえなかった。バカになるからって』

そう言ったら、桃香はびっくりしてたっけ。

『そんなわけないじゃん。まあ、あたしバカだけどさ』

私が家を出てこの町に来た日。8月のはじめだった。1ヶ月前のことが、随分昔にも思えたし、もうそんなに経ったんだ、と驚きもする。
「覚えててくれたんだ」
「……そりゃあ、ね」
桃香は気まずそうに目を伏せた。
「悪いと思ってるんだよ、これでも」
ぽつりと、桃香は噛んだ唇の隙間から本音をこぼした。
近くで見ると、本当に綺麗な顔をしていると思う。それは当然、最初に会ったときと変わらないのに、印象は随分と違うものになった。
いまでもあのときの惨めさや痛みを思い出すと複雑な気持ちになるけど、腹が立ったりもするけど、でも怒る気になれないのは、桃香が本気でそう思っているのが伝わってくるから。
「でも、どうやって償えばいいのかわかんないし」
「うん」と私は言った。
「わかってる」
人を赦すのには、どうすればいいのだろう。
ふと、山で銃を持った男に襲われたときのことを思い出した。
私はそっと桃香に歩み寄り、華奢な手を握った。長くて骨ばった桃香の中指に、金色の指輪がきらりと光っている。
「わかってるよ」
と、私はもう一度言った。
桃香は驚いた様子で目を開き、それからふっと苦笑した。
「ほんと、あんたってお人好しだよね」
「うん、よく言われる」

それからアパートまでの数百メートルを、私たちは話しながら歩いた。
話題は当然のように恋の話になった。
私はユキと知り合ったいきさつから今までのことを話した。
桃香は意外そうな表情で聞いていた。
「ふうん、だからあんなに携帯を大事そうにしてたの」
うん、と私は照れながら頷いた。
「ユキとのやりとりは、全部宝物だから」
会いたいなんて自分からは言えるはずもなく、ユキが私と同じ気持ちだなんて想像もできなかったころ。他愛もない日常のやりとりを、寂しいときに何度も見返していた。
ひとつひとつのユキとのやりとりが、私を元気づけてくれた。
「そういうのって、少女漫画の中でしかないと思ってた。ちょっと羨ましいよ」
馬鹿にされるかな、と少し思ったけれど、桃香は微笑んで言った。その横顔は、やっぱり紫乃さんに少し似ていた。
それから桃香の話も少しだけ教えてくれた。
中指の指輪は、何年も前に好きな人にもらったものだという。すごく好きで、でも別れてしまった人。
「薬指にはめるのはなんかシャクだから、中指にしてんの」
桃香は照れ臭そうに言った。
「なんだ、桃香も少女漫画してるじゃん」
さりげなく、名前を言っ
てみたけれど、うるさい、と桃香は小さくつぶやいただけだった。



楽しい時間は、過ぎるのがあっという間だった。時間に形があるのなら、ちょっと待って、と尻尾を掴みたくなるくらい早足で毎日がすぎていく。
私はココアを入れるのがちょっとだけうまくなった。それでもやっぱり。紫乃さんには遠く及ばないけれど。
9月はあっという間に過ぎてしまった。もうすぐ、10月の終わりは、ユキの誕生日だ。
「誕生日にしたいことってある?」
夜、私はココアを飲みながら尋ねてみた。隣に座るユキが、考える仕草をする。
「うーん……特に思いつかないな」
「家ではお誕生日会とかしてた?」
特にしなかったな、とユキは首を振った。
「父さんなんて息子の誕生日忘れてたからね。ばあちゃんは毎年プレゼントくれたけど、いつまでも俺のこと子どもだと思ってるから、中学になっても小学生用のおもちゃなんだよ。高校になってさすがにやめてって言ったけど」
「あはは、それで何になったの?」
「お菓子。食べ物なら間違いないと思ったんだろうな」
「おばあちゃん可愛いね」
家族の話をするときのユキは、いつも楽しそう。そして私は、少し寂しくなる。
いいのかな、と思う。私が引き留めてしまっていいのかな。
「……ねえ、ユキ、家に帰りたくなったらいつでも言ってね?」

ユキが私を見て、テーブルにマグカップを置いた。
抱きしめられて、私は何も言えなくなる。
「いいよ。イノリは何も気にしなくていいんだ」
「うん……」
そうだよね。一緒にいるって決めたから。私たちはやっと、一緒にいられるようになったのだから。
ユキがそう言ってくれるのは嬉しいし、幸せだとも思う。
それでもやっぱり、いいのかな、という思いは消えなかった。

「あったよ。やりたいこと」
ふいに思い出したみたいに、ユキが明るい声で言った。
「えっ、なに?」
「当日まで教えない」
「なにそれ気になる」
私が口を尖らせると、ユキはにやりと笑って言った。
「いいだろ、俺の誕生日なんだから」



「ねえ、私も、誕生日のお願いしてもいい?」
「イノリの誕生日って来月じゃなかった?」
「うん、でも」
「いいよ、なに?」
「あのね、この箱を誕生日に開けてほしいの。あ、恥ずかしいから私のいないところでね!」
「……玉手箱とかじゃないよな?」
「大丈夫だよー、煙とか出てこないから」
イノリはあははと笑って、箱を俺に手渡してきた。
文庫本くらいのサイズの白い箱。それは、
「私の宝箱だよ」
と、私は笑って言った。



なにを思ったのか、ユキが突然、早朝ランニングをはじめた。
「どうしたの、いきなり?」
私は起きてきて、でも眠気まなこの状態で変わった。
「俺、じつは陸上部だったんだ」
「そうなの?」
「行ったのは年に2、3回くらいだったけど」
「あはは、やっぱり」
「やっぱりってなんだ」
「だって」
だってーーユキの練習用のシューズは、新品みたいにピカピカだったから。
「いってらっしゃい」
「うん。いってきます」
玄関を開けると、夜と朝のあいだの薄暗い景色が見えた。
明日は私も早起きしよう、とユキを見送ったあとに思った。



カメラのフィルムは、あと3枚になっていた。
「うーん……あと3枚ってなると考えちゃうなあ」
「そんなに撮ったっけ?」
「撮ったよー」
パシャリ。とこっちを向いたユキを撮る。
「あ、あと2枚」
「それ無駄遣いだろ」
カメラを奪われて、今度は私が撮られる。
「今絶対変な顔してた!」
「現像してからのお楽しみなんで」
ユキが意地悪な笑みを向ける。
もう、と私はふくれる。
最後の1枚は、もう決めていた。
ユキの誕生日に、最高の1枚を撮るんだって。



「近ごろ、ぐんと寒くなったわねえ」
紫乃さんがカウンターに立って肩を震わせながら言った。
「この間花火をしたのが、随分前のようだわ」
本当にそうだ、と思った。
日に日に気温が下がっていくのを肌で感じる。空から太陽が消えて、もう10ヶ月。夏がなければ秋もない。めちゃくちゃだ。季節はものすごい勢いで、冬に突入しようとしていた。
「このまま、冬になっちゃうんでしょうか……」
「そしたら、春が来るまで冬眠しなきゃね」
紫乃さんが困ったように、肩を竦めて言った。
冬眠。ほんとうにそんなことができたら、どんなにいいだろう。。この世界が、正常に戻るまで。
だけどそんなことできるはずもなく、異様な日々に対抗するみたいに、私たちはなんとかいつも通りの生活を続けようとしている。
朝起きてご飯を食べて、働いて、空いた時間にちょっとおしゃべりをして、いつ終わりがくるのか誰にもわからない日常を、必死に守ってる。
「そういえば、明日は祈ちゃんおやすみだったわね」
「はい、お願いします」
「愛しの旦那様の誕生日だもんねえ?」
にやにやと紫乃さんが腕をつついてくる。
「だ、だからその言い方は……」
もはや条件反射的に、私は顔を熱くする。こういう話題に、まるっきり慣れていないのだ。
「照れない照れない」
好きなものなんでも持っていってね、と紫乃さんは気前よく言ってくれる。
「ワインもいるかしら?」
「未成年に勧めないでください」
「うふふ、冗談よ」
紫乃さんの場合、あまり冗談に聞こえないからこわい。
明日はーーユキの誕生日だ。
明日だけは、余計なことをなにも考えないで楽しむんだ。そう決めていた。



こんなに恵まれてていいのかな、と思うときがある。
部屋でご飯を食べながら、お店で仕事をしながら、散歩をしながら、あたたかいココアを飲みながら、大好きな人とキスをしながら、抱き合いながら、布団に寝転んでおしゃべりしながら、
私は1日に何度もそう思う。そう思って、ふいに泣きそうになる。おかしいな。なんで私、こんなに情緒不安定なんだろう。
ねえユキ。
私、毎日、夢を見ている見ているみたいなんだ。
朝も昼も夜も。かぎりなく幸せな夢。終わりのない夢。
だからーーこんなに幸せだから、もう、いつ終わりがきてもいいかなって思う。
でもやっぱり、ずっと続いてほしいとも思う。

『いつか大人になったら、あの桜を一緒に見よう』

あの約束は果たせないままだけれど、私たちがここにいることが、きっと奇跡だからーー
それ以外は、もうなにも要らない。そう思えた。



お気に入りの服を着て出かけた。私は白いレース模様のワンピース、ユキは白いシャツに薄手のジャケットを羽織り、細身のパンツを履いている。どちらも、いつもより随分カチッとした格好だった。
「10月になったら、もう一度あの桜を見に行ってみようか」
ふいに、ユキがそう言った。ちょうどそのことを考えていた私は、驚いた。
「四季桜の時期は2月と10月頃って紫乃さんが言ってただろ」
「じゃあ、明日?」
「うん、明日だな」
「でもその前に、」
と私は歩きながら言った。
「そろそろ教えてくれてくれてもいいんじゃない?誕生日にやりたいこと」
誕生日にやりたいことがある、とユキは言った。なにかは当日まで秘密。
今日が当日だった。いったいなんなのか、気になってずっとうずうずしている。
私の知らない住宅街を、ユキはずっと前から知っているみたいにすいすいと抜けていく。人気はなく、あたりはしんとしていた。目隠しをしながら歩いているみたいに、どこか覚束ない気持ちになった。
「うん」
とユキはいきなり立ち止まって、言った。
俺ねーー、

「イノリと結婚したい」

一瞬、頭の中が真っ白になった。けっこん。4文字が、頭の中をぐるぐるとまわりながら少しずつ意味を形成していく。
けっこん。けっこん。ケッコン……

「け、結婚………………!?!?」

「そう、結婚。18になったから」
あっさりと、ユキはそう言う。けれど笑った表情のぎこちなさから、照れているのがわかる。私にも、それはきちんと伝染する。
「えっ、でも……どうやって?」
「まずは記念写真、ってことで」
私たちが立っていたそこは、写真屋の前だった。
古びた緑色の看板に『田中写真館』と書いてある。
店の前には曇ったショーウィンドウがあり、いくつかの写真が飾ってある。結婚式の写真や、赤ちゃんの写真、風景、動物。何年前のものなのだろう、どれも色褪せてほとんどセピア色になっている。
「さ、行こう」
ユキは私の手を引いて、扉を押し開けた。

「わあ……!」

足を踏み入れた瞬間、私は目を見張った。壁一面に、隙間がないほどたくさんの写真が貼られている。淡いオレンジ色の照明の中で、写真は美しく光っていた。昔の白黒写真も、セピア色のも、今の鮮やかな色の写真もあった。たくさんの時間が目まぐるしく流れているみたい。
私は圧倒されて、しばらく言葉を失っていた。
「おお、きたか」
どこからか、聞き覚えのある声がした。
「こんにちは、田中さん」
隣でユキが言った。
田中さん?
私ははっとして、あたりを見渡すと、レジの向こう側から、背中の曲がった白ひげの老人が顔を出した。
「田中さん……!」
こんにちは、と私も慌てて挨拶をする。田中さんが写真屋さんだったことを、初めて知った。でも、そんなに背中が曲がってるのに写真なんて撮れるのかな。
「時間がない。早くはじめるぞぃ」
「お急ぎでしたか?」
ユキが尋ねると、「まあな」と田中さんがひげを揺らした。
「11時から見たいドラマがあってのお」
マイペースなことを言って髭を揺らしながら、田中さんは覚束ない足取りで支度をはじめた。
店の一角に、こぢんまりとしたスタジオのようなスペースがあった。そこで写真を撮るらしい。
田中さんは三脚にカメラをセットし、それから自分は脚立にのぼった。
なるほど、と私は感心してしまった。田中さんの背ではとてもカメラに届きそうになかったけれど、それなら十分に届く。ただしかなり危なっかしいけれど。
「大丈夫ですか?」
ユキが心配そうに言う。
「この道50年。心配はいらん……おっと」
ガタガタッと脚立が揺れ、ユキが素早く脚を支えた。
「あの……」
「大丈夫じゃ」
不安だ……。

でも、いったん準備が整えば、田中さんの顔つきがふっと真剣になった。足元の覚束なさもなくなり、脚立の2段目に立ってレンズを覗き込む。
私たちはカメラの前に立ち、肩をぴったりとくっつける。人に写真を撮ってもらうって、なんだか変な感じ。手を繋いで、2人して照れ笑いする。少しにやけてしまったかもしれない。
「これは久々にいい写真になるぞ」
撮る前から、田中さんはそう言った。
パシャッ。と短いフラッシュをたいた。1枚だけだった。
「これはいい写真になる」
撮り終えて、田中さんはもう一度満足そうに頷いた。
「夕方ごろにもう一度来なさい。最高の1枚を用意しておくからのお」



私たちは町の外れの小さな教会にやってきた。私たちが初めて出会った場所。風のない灰色の空の下、役目を失った風見鶏が、どこかさみしげに屋根の上に佇んでいた。
天井近くの大きな青色のステンドグラスはもう光を受けて輝くことはないけれど、そこに描かれた真摯に祈りを捧げる人々の姿はそれでも美しかった。規則正しく長椅子が並び、金色の大きなオルガンと、壁の真ん中にシンプルな十字架がかかっている。
「これ」
とユキが上着のポケットから、青いベルベットのケースを取り出した。
「家を出る前に、父さんが渡してくれたんだ」
蓋を開けると、中には、ふたつの指輪が入っていた。大きいのと小さいの。シンプルな銀の指輪だった。
「これって……」
喉の奥がギュッと狭くなったように言葉が詰まった。
「うん」とユキは頷いた。
「父さんたちの結婚指輪。俺にいつか愛する人ができたら渡してほしいって、母さんに頼まれてたんだって」
私は渡せないからーーユキのお母さんは亡くなる前に、病院のベッドでそう伝えたそうだ。

『少し早い気もするが、たぶん、今がその時なんだろう』

ユキは、お父さんとお母さんの思いを受け継いで、ここに来た。そして私に繋げてくれた。
幸せになれと、ふたつの指輪に、その思いを託して。
私はぎゅっと目を閉じ、ぽろぽろと涙をこぼしながら、ありがとう、と言った。
「すごく嬉しい。夢みたい……」
私たちは、ふたりきりで結婚の儀式を執り行った。
十字架に向かって、うろ覚えの誓いの言葉を口にした。
「健やかなるときも、病めるときも、あなたを愛することを誓います」
それからお互いの薬指に結婚指輪をはめた。どちらも測ったようにぴったりだった。
えへへ、と照れ笑いが洩れた。
「どうかな?」
「いいね」
ユキも照れたふうに笑った。
それからそっとキスをした。


「これで私たち、結婚できたのかな?」
「ああ、これで俺たちはもうちゃんとした夫婦だ。そのうち挨拶にいかないとな」
とユキは現実的なことを言った。
「なんか不思議だね。世界がこんなふうなのに……」
「こんなふうになったからだよ」
ユキは言った。
「世界が異常事態になったから、俺たちは一緒にいられるんだ」
「うん、そうだね……」
私は涙の混じった声で言った。ほんとうに、そうだね。
世界が変わらなかったら、きっと、私も変わらなかった。親の言うことを聞いて、学校の厳しい規則を守って、家出なんて考えもしなかった。たった1日、電車でどこかへ行くことすら、少し前の私には無謀なことだった。
だけど、世界がこんなふうになって、自分の命が長くないと知って、私はやっと、自分と向き合えた。自分の気持ちに正直になれた。
勇気をだして一歩外に飛び出せば、できないことなんて、なにもなかった。私はやっと、ほんとうの幸せを掴んだんだ。ずっと心の底から望んでいたこと。
ユキに会いたい。最初はそれだけでよかったのに。
一緒にいたい。楽しいことをたくさんして笑いあいたい。
どんどん、どんどん、自分でも驚くほど欲張りになっていった。
ねえ、ユキーー

「私、幸せだよ。今、すごく幸せ……」

ずっと幸せだった。ユキと出会ってからずっと、夢を見ているようだった。この灰色の世界の中で、君といる時間は、真っ白な光に包まれているみたいだった。

繋いだユキの手から、するりと私の手がほどけた。
私はしたたか床に膝を打った。痛い、とももう感じなかった。

「イノリ……?」

ユキが私の前に屈んで肩を抱く。
「イノリ!」
耳元でユキの声が聞こえる。
その声が、どんどん遠くなっていった。