風見鶏というのは鳥をかたどった風向計で、鳥の向く方向によって風の向きを知ることができるらしい。ヨーロッパでは魔除けとして、教会や家の屋根につけられることが多いという。
『風見鶏』という名前の喫茶店の屋根には、教会のそれよりもひとまわり小さな風見鶏が立っていた。
「お守りみたいなもんよ。まあ最近じゃ、風も吹かないから本来の役目を見失っちゃってるけどね」
と、紫乃さんは言った。
朝食は、クロワッサンとオムレツとココアだった。店内はそれほど広くはないけれど、天井が高くて窓が大きく、開放的な空間だった。窓から太陽の光が降り注いでいれば言うことないけれど、ガラス越しに見上げる空は相変わらず灰色だった。
店内にはお客さんが3人。美人な若いお母さんとお母さんに似て可愛らしい小さな女の子が、クロワッサンを1つずつ分けて食べている。窓際にはひとり、背中の曲がったおじいさんが座っていた。昨日、教会に行く途中に話しかけてきたおじいさんだった。私のことは覚えていないのか、もう興味がないのか、こちらにはちらりとも目を向けずに、熱心に新聞を読みふけっている。

「万年桜?」
紫乃さんが、キョトンと目を丸くした。
「さあ、聞いたことないわねえ。結婚してから30年近くこの町に住んでるけど、そんな話は一度も」
うーん、と紫乃さんはテーブルを拭きながら首を傾げる。
「そうですか……」
私は肩を落とした。4年前の6月、私はこの町のどこかの山に登り、そこで季節外れの桜を見つけた。だけど、後から本やネットで調べてみても、6月に咲く桜なんて、どこにも見つけられなかった。おまけにそのときはバスで行ったから、情けないことに場所も名前も全然覚えていなかった。

「もしかして、四季桜のことじゃないかね?」
と、ふいに背中の曲がったおじさんが、頭だけこちらに向けて言った。話を聞いていたことにまずびっくりした。
「ああ、四季桜なら知ってるわ。でも開花の時期は2月と10月ごろじゃなかったかしら」
「今は時期外れじゃが、この異常気象じゃ。桜が勘違いしとるということもあるかもしれんぞ」
「そうか。そのときもたまたま、涼しくて桜が勘違いしたのかもしれないな」
ユキが納得したように頷いた。
「うん……そうかも」
そのとき私は汗だくだったけど、それは歩きまわっていたからだ。気温は、そんなに高くなかったはずだ。少なくとも、私の頼りない気温では。
「その四季桜はどこにあるんですか?」
とユキが紫乃さんに尋ねた。
「それならすぐにわかるわよ」
ほら、と紫乃さんが窓の外を指差す。正面に小高い山が見える。
「あそこ。ここから歩いて30分もかからないわ」
と、にっこり微笑んでそう言った。

歩いて30分もかからない、と紫乃さんは軽く言ってのけたけれど……
実際は思った通り、いや思った以上に、その道のりは楽ではなかった。
細い道は足元が悪く、2、3歩ほど歩くたびに、パキッ、と地面の小枝を踏む。石につまづきそうになる。おまけに日が当たらないせいで、湿気に強い植物が繁殖し放題で、ところどころ道すらないところもあった。
時間的にはそんなに歩いてないはずだけど、慣れない山道に普段の運動不足が加わって、私は息を切らしながら登った。
「大丈夫?」
隣を歩くユキが、心配そうに言う。私とは対照的なほどに涼しげな顔をしている。
「な、なんとか――」
そう言ってるそばから、落ち葉で滑ってつまづいてころびそうになる。

「あぶなっ!」

寸前のところで、ユキに手を掴まれた。
「あ、ありがとう」
「はい」とユキが手を差し出して、一瞬キョトンとする。
「危ないから、こうしていよう」
「う、うん」
手を繋いで、再び山道をのぼり始めた。
気温はひやりとするほど低いのに、手にへんな汗が滲みはじめて気になってしまう。

それからしばらく登ると、急に景色が開けた。

「ここだ……」

私は息を零しながらつぶやいた。
山の中にぽっかりと空いたエアポケットのような場所。短い草が絨毯のように茂り、小さな小屋があり、小屋に寄り添うようにして、大きな桜の木が立っている。
「これか」
ユキが木を見上げて言った。
でも――

「咲いて、ないね」

枝に申し訳程度の葉がついているだけで、花は咲いていなかった。あの日見た幻想的な景色は、そこにはなかった。
「そっかあ……」
あの不思議な桜は、いつでも咲いてるわけじゃなかった。
4年前のあの日は、何かの条件が奇跡的に重なって、私は夏の桜を見たんだ。

『一緒に桜を見よう』

それが、私たちの目的だった。
それが、私たちが会う理由になった。
絶望的な状況でも、奇跡みたいなあの桜をもう一度見ることができたら、もしかしたら希望が持てるんじゃないかって、そう思ったのに……。
ふいに目の奥が熱くなった。だめだ、泣いてしまいそう。
そのとき、クイっと軽く手を引かれた。
「……行こっか」
ユキが言った。
「うん」
と私は頷いた。
不安定な山道を下った。ユキが私が躓かないように、さりげなく気をつけてくれているのがわかる。
「……なんか、すごいね。慣れてるね、ユキ」
私はぽそりとつぶやいた。
「そんなことないよ。山登りとか小学校以来だし」
「そ、そっか」
山登りのことだけじゃないんだけど……と思いながら、でも口にできるはずもなくて、私は笑って曖昧に濁した。

「そういえば昔、1回だけ自転車で山登りしたことがあるな」
ユキがふと思い出したように、ぽつりと言った。
「自転車で山登りなんてできるの?」
私はびっくりして尋ねた。
「修行だとか言って、親父に無理やり連れてかれてさ。道はガタガタだし傾斜きついし、無茶だよ」
「まさか、自転車で頂上まで登ったの?」
「いや、さすがに途中で諦めた。俺、小学生だったし」
ユキが懐かしそうに、ふっと笑う。
「たまに意味わかんないことするんだよな、あの人」
「おもしろいお父さんだね」
想像して、私はくすっと笑ってしまった。
「変な人だよ」
「ううん、いいお父さんだと思う」
羨ましいな、と思った。きっと、温かい家でユキは育ったんだろうな。
私のお父さんは、家族のことにあまり干渉しなかった。進んで会話をしようとせず、家族のことは全部お母さんに任せきりで。いつも自分の部屋にこもって仕事をしていた。だから、お父さんとの思い出は思い返してみても、あんまりなかった。
もっとユキの家族の話を聞きたいな。
そう言おうとしたとき、突然、ユキが立ち止まった。
私はつんのめってユキの背中に顔をぶつけてしまった。
「どうしたの?」
あそこ、とユキが目線の先を指して言った。
「人が倒れてる」
え、と私はびっくりして目を凝らしてみる。
「ほんとだ……!」
「行ってみよう」
繋いだユキの手に、ぐっと力がこもった。怖かったけれど、私もおそるおそるついていく。

「――っ!」

顔じゅう泥に塗れ、ボロボロに破れた服を着た男の人が、そこに倒れていた。
「ここで待ってて」
ユキはそう言って、男に歩み寄った。
「あの、大丈夫ですか、意識は……」
そのときだった。
男がいきなりがばっと飛び起きて、ユキの顔の前に黒い物体を向けた。

――銃だった。

「お前、誰だ」
ユキは目を見開いて、言葉を失っていた。
私も、何か言おうとするのに、恐怖で声が出なかった。
男は返事を待たずに金切り声をあげた。
「わかってんだぞ、お前らあいつらの仲間だろ、そうなんだろ!お前も!」
今度は私に銃口を向ける。
頭が真っ白になる。一体、なにが起こっているのか。どうしてそんなものを向けられているのか。
「お前ら、俺を殺しに来たんだろ。おい、そうだよなあ?」
銃を向けたまま、男がにじり寄ってくる。膝が笑う。足がずるずると沈んでいくような感覚。
「オモチャじゃねえぞ、これで何人も殺ったんだからな。お前らも殺してやるよ。あんな奴らみんないなくなればいいんだ」
男の目はどこか焦点があっていなかった。ここではないどこかを見てにたにたと笑う。
「どっちが先がいいかなあ。女のほうがおもしろいかなあ」
目と鼻の先にまで銃口が近づく。私は声も出せずにただギュッと目を瞑った。

――助けて。誰か……!

その瞬間。
どっ、と何かが地面に打ちつけるような、派手な音がした。

「無茶すんなよ、オッサン」

え……?
聞き覚えのある声だった。おそるおそる目を開けると、男が膝をついて呻いている。
「よ、また会ったね。祈ちゃん」
草壁藤也が、にっと笑って片手をあげた。
私が何か言いかけたそのとき、
「な……」
ユキが目を見開き、口をあんぐりと開けて、わなわなと手を震わせた。

「藤也……なんでここにいるんだ……?」

「おう由貴、1ヶ月ぶりくらいか?元気そうだな」
私は唖然として、2人を見つめた。


「え……知り合い!?」


「まあね。じつは元クラスメイトだったりして」

藤也はなんでもないことみたいに、そう答えた。