――事は、前の日の晩に遡る。

大学入学と同時に東京に出て来てからずっと、四歳年上の姉と一緒に暮らしている。
 
私が上京して来た時には、既に姉は東京で生活していた。そのおかげで、不安になることも心細くなることもない、何不自由のない日々を送って来た。

 その日も、仕事から帰って来て、姉の作った夕飯を食べながら続きが読みたかった漫画にのめり込んでいた。

スーパーエリート入谷恭一(いにたにきょういち)。クールなイケメンがどろどろに甘くなる。甘くて甘くて胸やけしそう。でも、そこがたまらない――。

今、私がはまっているこの漫画。社内一のイケメンでエリートの入谷恭一に『僕の目には、君しか映らない』と強引に口説かれて、あれよあれよという間にその魅力に嵌まる、平凡なOL小池美奈(こいけみな)のオフィスラブ。

社内一のオトコに選ばれるとか、ベッタベタのシチュエーションだけど、世の女みんなの夢だからこそのベタなのだ。
こうして私も、最高にときめかせてもらっている。そして、私は、この入谷恭一をある人に入れ替えて読んでいる。


――華(本当は美奈)、今日、営業の三浦と喋ってただろ。
――喋ってたって、それは仕事の話です。
――他の男となんか喋るな。その目に他の男を映すな。
――耕一さん(本当は恭一)、そんな無理なことを言わないで。私は三浦さんのアシスタントなんだから。私には、あなたしかいないのに。困らせないで……。
――ごめん、君を困らせたいわけじゃないし、君の気持ちも分かっているのに。君のことになると、どうしても冷静じゃいられなくなる。君が好き過ぎて可愛すぎて。


うーっ。こういう、社内では冷静に見える男が自分にだけ余裕のない姿を見せるの、たまらんよな。

「――華」

――華、君の心を僕に縛りつけておけるように、君の身体にも僕を刻み込みたい。今すぐ君を抱きたい。
――耕一さん、ここで?

おいおい、いくら夜も更けたとはいえ、オフィスだよ! 

ああでも、漫画なら許される。いいです。許します。桐谷さん、私をどうにもでしてください。

「ねえ、華」

――ねえ、華。僕は、ここで抱きたいんだ。そうしたら、君は仕事中、いつでも僕を思い出さざるを得ない。
――意地悪……。

「あ……っ」
「華! ちょっと! 変な声出してないで、返事をしなさい」
「お姉ちゃん、何よ。今、いいところだったのに」

仕方なくスマホから顔を上げると、ダイニングテーブルで真正面に座る姉が険しい顔をして私を見ていた。

「また、ゲーム? 食事中くらいやめたらどう?」
「今はゲームじゃありませーん。コミックだし」
「そんなの、どっちでもいいから。スマホを置きなさい」
「はいはい」

あからさまな溜息を吐き、スマホをテーブルに置いた。そして、夜遅くても消化しやすい煮込みうどんに箸を入れる。

「――今日も遅かったね。この時期は仕方ないって分かってるけど、いつも帰って来るのは11時過ぎで、あんたの身体が心配。出来る限り睡眠を優先させないと。漫画もゲームも、平日はやめたらどう?」
「何言ってんの。私から漫画とゲームを取ったら、死んじゃう。唯一の心の癒しなんだから。これがあるから、次の日も頑張れるんだよ」

いつもそう言ってるのに。どうして、そんなことを改めて言うんだろう。

疑問に思いながら、うどんをすすった。

「もう、お姉ちゃんがあんたの生活を気にしてあげられないから。これからは自分で自分の生活を管理しなくちゃいけないの――」
「え……?」

うどんを口に入れたまま、姉の顔を見上げる。

「どういう、こと?」
「私、結婚する」

――結婚。

「え!」

うどんがどんぶりに戻って行った。

「ちょっと、汚いよ――」
「結婚? 結婚って、この家を出て行くっていうこと?」