「うわあ、変な顔ー」

頬を撫でる冷えた風と共に流れ込んできたのは、明るくて柔らかな声。聞き慣れた心地の良い優しさに顔中に込められていた力が自然と抜けていく。

「開口一番失礼な奴だな」
「え、でもほんとにヤバかったよ?写真撮っととけばよかった〜。そんで颯太に見せてあげたかった」
「マジでそれだけはやめろ」

玲奈はあはは、とコロコロ笑い声を立てていたかと思えば、俺が隣に腰を下ろすやいなや大きな瞳でいたずらっぽくこちらを見つめてくる。

「で、何?チョコ貰えなかったからへこんでるの?」
「ちげーよ。こちとら毎年のごとく女子に追いかけ回されてヘロヘロなんだよ」
「別になんにも貰えないのに、バレンタインの日だけある意味めっちゃモテるよね、廉人」
「…ちょっと悲しいこと言うなよぉ!」

項垂れる俺に玲奈はまたも楽しそうに笑いながら、片手に持っていた袋を差し出してくる。中身は玲奈がおやつ用にかばんに常備している、市販のクッキー。俺はありがたくそれを頂戴し、一つ口に放り込む。ん、うまい。疲れた身体にバターの優しい甘さが染み渡る…。

「今年もお疲れ様でした。てかさ、私は側から見てるだけだったけど、颯太、今年はいつにもましてチョコの量すごくなかった?」
「そーなんだよ!!」
「あ、あれだ!体育祭効果じゃない?」
「あぁ、あいつリレーでめっちゃ活躍してたもんな………って、待て待て」

突然の静止に、玲奈は不思議そうに小首を傾げる。黒目がちな大きな瞳に覗き込まれ、一瞬見惚れてしまいそうなところをなんとか踏み止まる。

「玲奈、見てたんなら手伝ってくれよ!俺一人であんだけの女子相手するのめちゃくちゃ大変だったんだからな!!」
「えー、残念ながらそれは無理なお願いだなぁ。女子同士で廉人みたいな仲介役をやるのは中々にハードルが高いし、何よりもめんどくさいんだよ〜」
「…と、言いますと?」

女子のいざこざや裏事情に疎い…というかそこらへんをあまり理解できない俺は、割と本気で嫌そうに唇を尖らしている玲奈に聞き返す。

玲奈はこういう時、結構感情が顔に出るタイプだから考えてることが基本分かりやすい。まぁ、本当に知りたいことは中々読ませてくれないから、全く分からないんだけど…。

「ほら、私と廉人と颯太って小学校から中学高校もずっと一緒で仲良いでしょ?それを邪推して、私が颯太のことを好きだと思っている人が学校の中にはいっぱいいるんだよ」
「いっぱい?」
「そう、いっぱい。私達のことをよく知らない人達は大抵そう勘違いしてるっぽいよ」

えぇ…。マジか。

確かに颯太はイケメン、玲奈も意識して見れば可愛らしい容姿をしている。実際、男子達が「可愛い」と噂をしているのを小耳に挟んだこともある。冷静に考えれば当然のことではあるけど、それでも少なからずショックを受けてしまう。

俺だって昔からの仲なのに俺の出る幕はないのかよ、と心の中でぼやいているとなんでもなさそうに玲奈が隣で声を上げる。

「でも結局のところは、周りがどう言っていようがそんなことあり得ないんだけどね〜」

その玲奈の視線は眼下に広がる大きめなグラウンドに注がれている。その先には風と一体となって走る颯太の姿があった。

「…そんなん分かんねーじゃん」

改めて見てみると、俺の横でワイワイしている時とは比べ物にならない輝きを放っている颯太。そんな颯太といつも明るくて眩しい玲奈は、きっとお似合いなんだと思う。

けど、俺はそういうぱっと目を引く華やかな要素抜きで、小さい頃からずっと………。

「ん?なんか拗ねてる?」

不意に正面から顔を覗き込まれて俺はドキッとする。案外俺も思っていることが顔に出やすいタイプらしい。

「いや、拗ねてるわけじゃないけど…。本当にないのかなって」
「なにが?」
「だからさ…あー、めちゃくちゃ言いづらいんだけど!」
「だからなにが?主語を明確にしてよー」
「………颯太を好きになる、可能性」

ボソリと放たれた俺の言葉に玲奈は心底意外そうに、ただでさえ大きな目を更に大きく見開く。

はぇ〜と感嘆か呆れかよく分からない声を漏らすと、玲奈は「難しいこと考えんね〜」と呟く。

「確かに颯太は『女子の憧れ凝縮しましたっ』て感じの模範的な理想像ではあるよ?実際それでモテてるんだし。けど、なんか違う。よく分かんないけど…っていうのは言い訳かもしれないけど………」

大きく傾いた西日がじんわりゆっくり玲奈を包み込んでゆく。

「私は、私が惹かれるのは、颯太じゃないの」

どこか寂しげで柔らかいその声に、俺は顔を上げて横を見る。

でも玲奈の周りに差し込んでいる金色の眩い光が邪魔をして、やっぱり玲奈の表情は読み取れない。一番知りたくて大事なことは、分からせてくれない。

けれど、更にその奥に踏み込むのは少し怖くて、俺は曖昧に「そっか」と呟く。

その返答に、玲奈はふふっ、と小さく微笑む。

「なんで?とか、どういう意味?とか、聞いてくれないんだね」

からかうような声色に僅かに見え隠れするほんの少しのもの悲しさ。呆気にとられてなにも言えないでいると、玲奈は「なーんてね、ちょっとからかってみただけー」といつものようにぱっと明るい笑顔を見せる。

「あっ!廉人見て見て!!」
「おわっ!」

玲奈に腕を勢いよく引っ張られてバランスを崩す。その中で見えたのは、玲奈が指差す先の景色。

颯太と、一人の女子が向かい合っている。その女子は躊躇いがちに多分何か…一言二言口にして大人っぽい色の箱を颯太に手渡す。それを受け取って小さく会釈をする颯太。

「…チョコ、渡してたね」
「うん、直接颯太に渡す人って結構レアだよな」
「そうだねー」

また部活の片付けに戻っていった颯太の背中を、愛おしげに見つめる彼女の姿に、俺はポツリと呟く。

「なんでみんな…自分で直接渡さないんだろうな」
「それって、チョコの話?」
「うん」

俺は視線をグラウンドから空へと移す。空の温かみを感じられるオレンジ色の夕焼けは、冷たさが肌にひしひしと伝わってくる紺色を帯びてきている。

「だって、気持ちの大小、長さは人それぞれだろうけどさ、好きっていう気持ちは嘘偽りのない、本物なのに。渡す相手のこと、颯太のことを思って作ったものなのに。それを誰かに託すのはもったいないし、本当にそれでいいのかなって思う」

大抵の部活が片付けに入り、グラウンドの喧騒が小さくなった空間に俺の大して大きくない声がよく響く。

玲奈は「なるほどねぇ…」と、なにか思うところがあるように呟く。その視線は依然としてグラウンドの中の一点を捉えている。

「廉人の言ってることは、正論だと思う」

ハッキリとそう告げた玲奈は立ち上がり、夜がかってきた空をその綺麗な瞳に反射させる。

「でもね、大事にしてきた想いだからこそ、怖くなるんだよ」

その瞳の中で瞬く一番星は、夜空に実際に浮かんでいるものよりも、ずっと明るく眩しく美しく煌めいている。

「渡したい相手のことを思って、その度に胸がドキドキ鳴って、それが積み重なっていけばいくほど肝心なところで勇気を出すのが怖くなるの。前に一歩を踏み出すのを躊躇っちゃうの。…それでも不思議なことに他人任せでも運任せでも、伝えたいっていう気持ちは変わらないんだよ」

想いが積み重なっていくほど肝心なところで勇気を出すのが怖くなる、前に一歩を踏み出すのを躊躇ってしまう………その玲奈の言葉が心の深い部分に刺さった。どうしても他人事だとは思えなかった。

俺は、玲奈のことが昔からずっと好き。

明るいところが、弾ける笑顔が、他人思いで優しいところが、顔にすぐ感情が出てしまう素直なところも、そのくせたまに本音を読み取らせてくれないところも、大事な場面で不器用さを発揮するところも、変なところで面倒くさがるところも、ずっと好きだ。

だけど好きだとは思いつつも、玲奈本人にはちゃんとその想いを伝えていない。中途半端なことをしていると分かっていながら、それでも面と向かって想いを口にできないのは、前に一歩踏み出して今の関係が壊れてしまうのが怖いから。

「それに、誰かのために胸を鳴らせるって、素敵なことでしょ?だから私は、颯太にチョコを渡そうとして必死になっている人たちのことを全面否定する気にはなれないんだよね〜…ま、廉人にとっては災難でしかないかもだけど」

振り向いて笑いかけてくる玲奈は、少し声のトーンを落として続ける。

「それに廉人が鈍感なだけで、もしかしたらそういう風に廉人にチョコを渡したいって頑張ってる健気な女の子が意外と近くにいるかもよ〜?」

ふわふわしつつも何かを試すような調子の玲奈の横顔を、俺はじっと見つめる。

「ほら、颯太宛てだと思ってまとめてある紙袋の中のチョコに、廉人宛てのが一個だけ混じってたりするかもだよ。それも、本命の」
「…似たようなこと、颯太も言ってた」
「あ、ホント?さすが気が合うね〜」

くしゃりと目尻に皺をつくって笑うと玲奈は、「あ、思い出した!」といそいそとかばんの中から何かを取り出す。

「まぁ、とかなんとか色々言ったけど…」

はい、と差し出されたのはチョコレートだった。駄菓子屋でよく見るタイプの、サッカーボールやバスケットボール、野球ボールやテニスボールなどを模して着色された銀紙に包まれた一口サイズのチョコの詰め合わせ。バレンタイン仕様として売られているのか、若干包装が可愛いらしい感じになっている。

「ハッピーバレンタイン、廉人!」
「………ありがとう」

キョトンとする俺を、玲奈はやや不満そうに見返す。

「………なんか、反応薄くない?」
「いや、マジで嬉しいよ?」
「あ、あれだ!女子から初めてチョコ貰って緊張してるんだ!!」
「うっせーな!貰ったことぐらいあるし!」
「誰に?」
「………妹」
「ほら〜。やっぱそうじゃん」

コロコロと楽しそうに笑い声を立てると、玲奈はまたもいたずらっぽく口の端を持ち上げる。

「で、感想は?」

俺は思ったことをそのまま口にする。

「ボール型のチョコをあえて選ぶセンスに玲奈っぽさが出てていいと思う」
「………なんか貶されてない?」
「気のせい気のせい」
「やっぱ貶してんじゃん!…ま、私、手作りは本命にしか渡さない主義なんで」
「つまりこれは義理チョコだぞ、と」
「んふふ〜」

玲奈は何故か満足げな声を漏らすと、くるりとその場で軽やかにターンしてみせる。それに合わせてふわり、とスカートが風にたなびく。

「じゃ、私そろそろ帰るね〜。バイバイ」
「ん、また明日」

玲奈はパタパタと足音を立てながら小走りで屋上から出ていく。扉がバタン、と閉まりかけたその時、

「あ!」

唐突に上がった声と共に、ドアがもう一度大きく開かれる。その隙間から玲奈が少し照れくさそうな顔をひょっこり覗かせる。

「お返し、期待しとくね」

それだけ言い残すと、玲奈は俺の返事も聞かずに忙しなく階段を駆け降りていった。

「………」

静寂の中に取り残されたのは、俺一人と掌の上のチョコレート。俺はじーっとそれを見つめる。

「マジで貰ったんだよな?玲奈に」

玲奈からの、チョコ。今までなんやかんや仲良くしてきたけど一回も貰ったことがなかった、バレンタインチョコ。まさか今年いきなりくれるだなんて想像もしてなかった。

「……………よっしゃあ!」

バレンタインクソ喰らえなんて言ってごめんなさい。前言撤回。バレンタイン、最高!