新そよ風に乗って ② 〜時の扉〜

「フルコース貯金は、貯まったか?」
あっ。
「は、はい。あっ、いえ、あまり……その……色々ありまして。まだ、ちょっと」
「そうか。じゃ、帰国祝いの食事は、明良にでもご馳走になるか」
エッ……。
帰国祝い?
「あの、高橋さん。何時まで、日本にいらっしゃるんですか?」
「何時までか……。何時までにするかな」
はい?
「あの……」
「辞令を貰いに来た」
「高橋さん?」
「後で、帰国の手続きに必要なことを教えてくれ」
嘘……。
「ほ、本当に、帰国されるんですか? もう、ずっといらっしゃるんですか?」
「いらっしゃったら、まずいことでもあるのか?」
「えっ? そ、そんな、そんなことないですけど……」
「けど、何だ?」
うわっ。
高橋さんが、悪戯っぽく笑いながら私の顔を覗き込んだ。
ち、近過ぎですって、高橋さん。
「あ、あの、何だか信じられなくて」
「フッ……。さて、人事部長に辞令を貰って、社長にご挨拶に伺うかな」
ちょうど扉が開いたエレベーターに乗る直前、そう言って高橋さんはジャケットの襟を正した。
「乗って」
「は、はい」
高橋さんがエレベーターに先に乗せてくれたので、敢えて奥まで進み、高橋さんの背中をそっと眺めていた。
入社してから、この背中を見るたびに、胸がキュンと鳴っていた。それは、社会人として、上司として、高橋さんに対する憧れと羨望の眼差しだとずっと思っていた。でも、違ったんだ。本当は、そうじゃなかった。高橋さんがニューヨークに行ってしまって、その存在の大きさに改めて気づかされ、驚いて……。あの悪夢のようなテロがあって、自分の思いに初めて気づいた。ううん、初めて気づいたんじゃない。この思いを心の奥に閉じ込めて、封印していただけ。
「お前も……」
エッ……。
「お前も来るか?」
エレベーターのドアが開く直前、高橋さんがこちらを振り返った。
「久しぶりに、明良達も誘って食事に行くか?」
「あ、あの、い、いいんですか? 私もご一緒させて頂いて」
「嫌なら誘わない」
高橋さん……。
「もっとも、貯金がまだ貯まってないらしいから、ご馳走になれないのが残念だが」
「高橋さん。そ、それを言わないで下さい」
そう言われると、ガックリ項垂れてしまう。
「フッ……。邂逅というのは……」
高橋さん?
「降りるぞ」
「あっ、は、はい」
エレベーターから先に降ろしてくれた高橋さんだったが、いつの間にか前を歩いていた。
高橋さんのこの背中をいつも見ながら、自覚してしまうのが怖くて心の奥に封印していた思い。社会に出て、この会社に入社して、仮配属で高橋さんの部下になった。偶然が幾重にも重なった、めぐり逢い。今こそ、素直に心の封印を解く時なのかもしれない。
「何してる? 置いてくぞ」
考えながら歩いていたら、だいぶ遅れをとってしまっていた。
「あっ、高橋さん。待って下さい」

心の時の扉が、今、開こうとしていた。


「新そよ風に乗って 〜時の扉〜」 完

and……
next volume to be continued……