春休みが終わり、騒がしく人が行き交う道を遠目に、僕は一人路地裏を歩く。
 今日から新学期が始まる。昔はこの瞬間が楽しみだったけれど、高校生にもなると面倒だと感じる。
 せっかく馴染めていた去年までの環境を崩して、また一から始めなければならないと考えると少し憂鬱だ。
 それでも時間は止まってくれない。だから早く新しいクラスに慣れなければ。そう意気込んで学校の門をくぐった。

 春休みは課題と店の手伝いとゲーム三昧。そのゲームを一緒にやっていたやつらはというと。


 『クラス発表、別々で見に行こうぜ』

 それはゲーム中に怜斗が言ったことがきっかけだった。

 『別にいつも一緒に登校してるわけじゃないだろ』

 それぞれ適当な時間に家を出て、ばったり通学路で会った時に一緒に行くことはあっても、約束をしてまでは一緒に行かない。

 『いや、なんか。一人だけクラス違うってなったら虚しいから』
 『お前そんなこと気にするやつだったか?』
 『クラスに馴染もうとしない叶山には分かんねぇよ。俺だって最初は気にする』
 『へー』

 対戦相手に攻撃を仕掛けながら怜斗の言葉を聞き流す叶山。そんな中、拓巳は怜斗の気持ちに共感したようで。

 『確かに複雑な気持ちにはなるかな』
 『だろ?湊大はどうよ』
 『別になんと思わないけど。じゃあ明日は時間ずらして行くわ』

 なんて返事をしたから、今日は普段よりも早めに家を出た。いつもの時間に出ると誰かに会うだろうから。

 肌寒さを感じる風に吹かれ、朝早くに着いた学校は静かだった。生徒もまばらで、まだ明かりのついていない教室もある中、指定の廊下の掲示板を見に行く。
 うちの学校は、そこまで生徒数が多くないため、クラスは三クラス。たった三つだからクラスが違っても交流はあるし、会いづらくなることもない。
 一人だけクラスが離れたら複雑な気持ちになるのも分からなくはないなと考えながら自分の名前を探していた。

 宝田なんて苗字の人はいないからすぐに見つかるだろ。
 あ、あった。一組だ。
 その後、怜斗、叶山、拓巳の名前も見つけて同じクラスだということが判明した。

 連絡……は、わざわさしなくてもいいか。
 学校に来れば分かることだし、と僕は掲示板を後にした。

 一組はこの廊下の一番奥。
 教室に入ると、時間が早いからかまだ誰も来ていなかった。
 やはり学校に慣れてくると始業時間ギリギリに来る人が多いのだろう。

 教卓の上に置かれた座席表を見て自分の席を探す。
 窓際から二列目の一番後ろ……。窓際のがよかったけど、悪くない席だ。
 今日からしばらくは、ここが自分の居場所。鞄を机の横にかけて、ガランとした教室を見渡す。
 ちなみに隣の席が誰なのかは知らない。
 予め決められていた座席表には出席番号しか書かれておらず、名前と番号がまだ一致していないため確認できなかった。

 また掲示板を見に行くのも面倒だし、時間まで寝ようかな。
 始業式が始まるまではまだ時間がある。
 やっぱり早く来すぎたか。気合いの入ったやつだと思われるのも嫌だし、とりあえず寝たふりでもしておこう。
 少し開いた窓から桜の匂いが混ざる心地の良い風が吹き、そのまま机に突っ伏した。
 昨日遅くまでゲームをしていたのにも関わらず起きるのが早かったから、十分な睡眠をとれてない。
 式中に寝ないようにするために、今のうちに……。







 目を閉じてからどれくらい経ったのか分からないけど、遠くの方から足音が聞こえてきた。
 誰だろう。確かめようにも、頭がぼんやりしていて体を起こす気になれない。
 自分が来てからそれほど時間が経っていないのか、薄ら目を開けて教室を見てみても、誰もいなかった。
 あれ。じゃあ、今の足音は……?
 確かに教室の床を歩く音が聞こえていた。
 今は静かだけど、夢なんかじゃ……。そう思っていると窓際の方から椅子を引く音がした。
 僕はゆっくり、そちらを振り向く。

 え……。

 視線の先、自分の席の隣に、女の子が座っていた。
 その子は私服で、頬杖をついたまま窓の外を眺めている。制服を着ていない。うちの生徒じゃないのか?それにしても、小柄だ。まるで小学生みたい。

 少しずつはっきりしてきた頭で考える。小学生がこんなところにいるはずないと。
 すると相手も視線を感じたのか、こちらを向いた。そして視界に僕を映すなり、にこっと笑って「おはよ」と言った。

「君は?」

 僕は、ようやく体を起こして彼女に問いかけた。
 小学校高学年くらいの子に高校生が使う机と椅子は合わない。それでもその席から動こうとしない彼女は楽しげに笑っていた。

「私はね、自分の居場所を確認しに来た、ただの小学生だよ」

 あ……、これ夢か。
 自分はまだ寝ぼけているのだと思い、再び机に突っ伏した。
 そもそもここは小学生が無断で入れる場所ではない。本当に入れたのだとしたなら学校の警備体制を疑う。

 そのままそっと目を閉じて、現実世界に戻ろうと試みる。

 スタッ。

 高さの合わない椅子から飛び降りた音が聞こえた。
 それから、女の子は僕の席の正面まで来て立ち止まった。目を閉じていても視界が僅かに暗くなるから、それくらいは分かる。

 ……え?

 寝顔を見られないように廊下側を向いたまま目を閉じていたせいで、無防備になっていた右の頬に小さくて冷たいものが触れた。

「じゃあまたね。湊大くん」

「えっ!?」

 聞こえてきた声に目を開けて反射的に体を起こす。
 今の声は先程まで言葉を交わしていた小学生だ。それも、つい数秒前までそこにいた。それなのに。

「なんだよ湊大。脅かそうと思ったのに」
「は?」

 背後から聞こえてきたのは怜斗の声で、自分の目に映っているのはクラスメイトが揃い始めた教室だった。それに驚く間もなく、今まで聞こえていなかった喧騒が一気に流れ込んでくる。

「お前、何かしたか?」
「まだ何もしてねぇよ。起こそうと思ったら、湊大が勝手に起きたんだろうが」
「そう、か」

 居心地の悪い違和感を覚えながら、微かに冷たさが残る右の頬を触る。そんな自分の隣で気だるげに鞄を机の上に置いた怜斗。右隣はこいつか。

「変な夢でも見てたのか?」
「ゆめ……」

 あぁ、そうか。さっきまでのは夢か。
 高校にいた小学生。見知らぬ彼女は僕の名前を知っていた……変な夢だったな。

「おはよ、早いね二人とも」

 後ろのドアから入ってきたのは拓巳と叶山。

「お前ら一緒に来たのか?」
「掲示板の前で会ったから」

 怜斗がいて叶山がいて拓巳がいる。いつもと変わらない光景にどこか安心している自分がいた。

「どした湊大」

 異変に気づいた叶山が近づいてくる。
 さすがに小学生の女の子が出てきた夢の話をするのもどうかと考えた挙句、「変な夢を見た」とだけ伝えると、それ以上聞かれることはなかった。

 未だどこか遠くにいっている意識が完全に戻ってきたのは、始業のチャイムが鳴ってからだった。



 始業式諸々、今日の日程はあっという間に過ぎていき、迎えた下校時間。

「結局来なかったな、湊大の隣」

 怜斗の言葉で、僕は空席のままになっている隣の席を見た。
 担任の話によると、隣の席の生徒は体調不良で欠席しているらしく、遅くとも来週には来れるだろうとのことだった。
 夢で見たのが予知夢なら、あの小学生みたいな人が隣。確定したわけではないのに、僕は隣の人のことを知っている気でいた。

「名前見た?湊大の隣の人」

 学校の帰り、いつものように喋りながら四人で歩いていた。
 今日は新学期初日なのにも関わらず、怜斗は既に何人かと親しげに話していた。さすがのコミュニケーション能力。叶山は相変わらず一人で本を読んでいたし、拓巳も近くの席の人と一言二言言葉を交わす程度で、現状去年までと同じだった。

「まだ見てない」
「お前、クラスメイトに興味無いのかよ」
「それは叶山もだろ」
「俺は隣の人くらいは把握する」
「見たけど覚えるのは時間かかるよね」

 僕と叶山をフォローする拓巳。
 そんな三人を見た怜斗は盛大なため息をついた。

水月(みずき)さんだってよ」

 ……え?

「何が?」
「だから湊大の隣の人だよ!水月日和(ひより)って書いてた」
「へー」
「絶対美人だろ」
「名前だけで判断するのもどうかと思うけど」

 水月……。
 気がつくと足が重くなり、話し続ける三人の背中を見つめていた。少しずつ意識が遠くなって、次第に会話が入ってこなくなっていく。
 水月って、この間公園で会った人と同じ名前だ。
 ただの偶然かもしれない。あの人は高校生ではないし、そもそも水月が苗字か名前か分からない。
 それでも先程から妙に落ち着かない。

「湊大?」

 少し後ろを歩いていた僕の顔を拓巳が覗き込んだ。

「あ、いや。なんでもない」

 平然を装い、手で口元を隠した。
 心做しか頬が暑い気がする。

 『じゃあまたね。湊大くん』

 なぜかその時、夢で聞いた女の子の声が頭の中で再生された。