日曜日。
久しぶりに外に出ると、夏の終わりが見えてきているというのに、昼間の強い日差しが地面を照らしていた。
とりあえず外を歩こうと思いついたのはいいものの、こんなに蒸し暑い屋外を長時間歩ける体力がない。
どこか涼しいところに。そう無意識に考えて辿り着いたのは山の中だった。
ここなら日差しを凌げるし、なにより涼しい。山道を歩く足は不安定だが、夢中で登る。
湖丘まで歩いたら休憩しよう。
そして目的の場所まであと少し。
その手前で足が止まった。
視線の先にあったのは山の中にある唯一のアパート。
「僕はこんなところで何をしてるんだ……」
人のいる気配のない建物を眺めて、ため息をつく。
ここに来たって彼女はもういないのに。
帰ろう。このままいても何も変わらない。
そう思って来た道を戻ろうとした。
「どちら様?」
こんな場所に荷物を抱えた女性が一人。アパートの住人なのだろうか、僕のことを見て声をかけてきた。
「上にある湖からの帰りでして。あの、よければ手伝いましょうか?」
怪しまれないようにここにいた理由を告げると、女性は荷物を半分預けてくれた。
ダンボールに紙袋。買い物帰りにしては多い気がするが、最近ここに越してきて家具を揃えている最中なら不思議じゃないか。
「ここの二階の部屋まで運んでもらえる?」
「分かりました」
言われた通り階段を上り、僕は玄関先で荷物を下ろした。
「ありがとう、助かったわ」
急いでいたのか女性はその場でしゃがみ込み、僕が帰るのを待たずにダンボールを開けた。
そして、その一番上に入っていたのもには見覚えがあった。
「そのコップ……」
僕が零した声に女性は振り向こうとしてやめた。
「あぁ、これ?贈り物らしいのよ。……誰からのか分からないけれど、ずっとそばに置いていたから、持って帰ってあげようと思って」
その口調から、このコップは女性のものではない。
確認するように僕はもう一度視線を落とした。
桜がデザインされた木製のコップ。目立った傷も汚れもなくまだ新しい。
間違いない。これは僕が彼女に渡したものと同じだ。
「水月、さん……」
「え?」
気づくと僕はそう呟いていた。
そして名前を聞いた女性は顔を上げて、初めて僕と目を合わした。
「もしかして、あなたが湊大くん?」
「そうですけど。どうして僕の名前」
聞くと女性は目に涙を浮かべ、話し始めた。
「あなたと同い年くらいの娘がいて、その子がいた病室にあったコップなの。贈り主は分からないけれど、大切なものらしいって看護師さんから聞いて」
そのコップは知らぬ間に水月さんの手元にあったという。看護師が見ていない間に誰かが来たのかもしれないが、人が見舞いに来た形跡もなく、加えて彼女は寝たりで起きたことは一度もない。
最後まで誰からの贈り物か分からないままだったが、彼女の手元に置くくらいだから、きっと大切な人からのものだろうと、大切にされていた。
「私はあまり娘と話していなかったから、学校でどんな子と話しているのか知らなかったの。だけど、娘のことを大切に思ってくれる人がいたことが嬉しくて」
そう話す水月さんの母親は本当に嬉しそうで、その横顔が彼女と似ていた。
「息を引き取る前に一度だけ目を覚まして、ある人の名前を呼んでたの。それが、あなたの名前……」
ずっと寝たきりだった彼女が目を覚ました。
それはきっと、僕が呪いを解いたから。
そして彼女が名前を呼んでくれたから、水月さんの母親は僕のことを知っていて、教えてくれた。
水月さんは一度も目を覚まさず眠り続けていたのに、時折彼女の病室を訪ねると、嬉しそうな顔をしていたらことがあったらしい。
「勘違いかもしれないけれど、きっと素敵な夢でも見ていたのね」
僕が見てきた彼女との時間は、彼女にとっては夢の中の出来事になっているのかもしれない。
でも、僕は知っている。彼女が呪いの中で生きていたことを。その呪いは、彼女と関わった人を閉じ込めてしまう力があることを。
水月さんの呪いは、彼女と出会うところから始まっていた。つまり僕もみんなと同じで、呪いの中に閉じ込められていたんだ。だから亡くなった後に、会って話すことができていた。
彼女は僕を呪いの外にいる羨ましい人だと言っていたけど、まんまと呪いにはめられいたというわけだ。
結局呪いの外にいたのは、水月さんが亡くなったことを知っていて、直接接触していなかった彼女の母親だけ。
「私は最低な母親よ。この子を捨てて家を出たんだから」
母親が持っていたのは色褪せた写真だった。
そこに映っていたのは小さい頃の水月さん。
「最後に謝ることもできなかった……」
見えた悲しみが彼女と重なる。
この人も後悔していたんだ。
水月さんから過去の話を聞いた時、母親に対してどう思っていたのか聞けなかったけど、多分彼女は。
「大丈夫ですよ。彼女は、その気持ちに気づいていたと思いますから」
「そうかしら?」
母親の目の下にはクマができている。
ちゃんと眠れていないのだろう。体も痩せ細っていて心配になるほどだった。
「日和さんは、お母さんがどんな思いで生きていたのか、ちゃんと分かっています。分かった上で、いってらっしゃいと言った……今でもあなたの幸せを願っていると思います」
話し終えてから、自分が生意気なことを口にしていると自覚した。彼女から過去の話を聞いていたとはいえ、知ったげに語るのはどうなんだ。
「あ、すみません!」
咄嗟に頭を下げると控えめな笑い声が聞こえてきた。
「いいのよ。私よりもあなたの方が日和のことを見ていてくれたんだから。……ありがとう。日和のそばにいてくれたのが、あなたでよかった」
その言葉に顔を上げると、優しく微笑んでくれた。
今日、水月さんの母親が家に来ていたのは彼女の部屋を片づけるためだったらしい。
水月さんが亡くなってから心の整理がつかず、ようやく前を向けたところで僕に会い、驚いたと話してくれた。
「よければ日和に会いに行ってあげて。きっと喜ぶと思うから」
聞いた住所は隣町。
早速僕は教えてもらった場所に向かった。
電車に乗って住所をスマホに打ち込み、出てきた道を辿るとそこには綺麗なお墓があった。
「遅くなってごめん」
僕は持ってきた花を供え、そっと手を合わせる。
また、会えてよかった。
目を開けて辺りを見渡すと、町が夕日色に染まっていくのが見えた。
君とはよくこの時間に会うな。おかげで夕日を見ると思い出すんだ。
笑う君を。喜ぶ君を。涙を浮かべる君を。嬉しそうにはしゃぐ君を。甘いものを食べる君を。
『湊大くん!』
僕の名前を呼ぶ声も。
触れた体温も。触れた手も。触れた唇も。交わした言葉も、全部。
「約束、守るから」
だから、安心してよ。
冷たくなった墓石に手を添えてそっと微笑む。
君みたいに強くは生きられないけれど、僕も頑張ってみようと思う。
いつになるか分からないけど、いずれ僕もそっちに行くから。その時は、また一緒にいてほしい。
今度こそ、絶対に離さないから。
「好きになってくれてありがとう」
泣きながら笑うなんて自分らしくない。
そう思っていても、彼女への思いは抑えられなかった。
「ありがとう……」
僕は声を殺して最後の涙を流した。
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その瞬間強い風が吹きつけ、顔を上げると空に一羽の鳥が翼を広げて飛んでいるのが見えた。



