久しぶりに夢を見た。
昔からよく見ていたものと似ていて、少しだけ違う夢。
きっとこの夢を見るのは、これが最後だ。
最後に会った女の子は泣きながら笑っていた。
そして、ありがとうと言った。
『ありがとう――……』
水月さんから聞いた最後の言葉だった。
過去の夢が上書きされた。
僕の夢だから、僕が勝手に都合よく塗り替えただけかもしれないけど、本当に彼女の後悔が消えていたらいいなと思う。
「……」
昨夜、彼女とキスをした。
そして朝焼けが見えた頃、彼女は眩い光と共に消えていた。
「……」
目の周りが痛い。
どれほど泣いていたのか覚えていない。記憶がなくなるほど泣いて、疲れて、眠っていた。
このまま目が覚めなければよかったのに。
空っぽの頭でそれだけを考える。
そうだ。昨日のあれは全て夢で、今日学校に行けばいつものように隣の席に彼女がいるかもしれない。
ベッドから抜け出し、いつもと同じ制服に袖を通す。
朝ご飯は食べられる気がしないから、水だけ飲んでこのまま行こう。
「大丈夫?顔色悪いわよ?」
キッチンに立っていた母親の心配する声に軽く頷いて、重たい足取りで学校へ向かった。
周囲の音もあまり耳には入ってこず、真っ直ぐ歩いているつもりでも視界が歪む。いつもなら数分で着くはずなのに、今日に限って倍以上の時間がかかった。
玄関の段差に転びそうになったり、階段がやたら多く感じたり、気づかないうちに腕をぶつけていたり。いつもならしないミスをしてしまう。
こんなの、らしくない。
そして、倒れ込みそうになる体を無理矢理起こして教室の扉を開けた。
頼む、いてくれ。
光が差して、カーテンが柔らかく揺れる窓際一番後ろ。
「……ぁ…………」
視界に映ったその場所に、彼女の机はなかった。
残っていたのは自分の席だけ。
確認した名簿に水月日和の名前は無い。彼女の存在自体が消えていた。
昨日まで僕の隣にいた彼女は、もう……。
「うっ……」
強い目眩と吐き気に襲われる。
耳鳴りがして足元がふらつく。立っていられない。
僕のせいだ。僕のせいで彼女は消えた。
我慢できずに口元を押えてしゃがみ込んむ。
「おい、湊大!大丈夫か!?」
霞む視界で駆け寄る怜斗を見たのが最後、僕はそのまま目を閉じた。全身から力が抜けるのが分かる。
あぁ、やっぱり僕は弱い。
.
何もしない。ただ、時間だけが過ぎていく。
いつもの部屋。いつものベッド。
いつものように目を覚まし、スマホを見る。
【部屋の前にご飯置いてあるから、食べられそうなら食べてね】
妹からのメッセージに既読だけつけてスマホを置いた。
連休明け、登校早々倒れた僕は保健室に運ばれた。
原因は不明。
あとから病院に行くと精神的なものだろうと言われた。
それからは学校に行けず、部屋に籠ったまま数ヶ月が経っていた。
確かめたところ、水月日和という人は高校一年生の時に亡くなっていて、葬式もとうに終わっていた。
それなのに、なぜ彼女のことが見えていたのか。
そんなこと考えてみれば分かる。
僕たちは、この世に未練を残した水月日和の魂を見ていたのだ。
当然その記憶はみんなから消えていて、 家族も水月さんのことは忘れていた。
そして、僕だけが忘れていなかった。
これが彼女を苦しめていた呪い。
倒れた僕を見た何も知らないはずの怜斗が「大切な何かが欠けて、喪失感だけが残っている状態」だと言った。
喪失感はもちろん、そこに罪悪感と自分への殺意もあった。
生前彼女が言っていたように、僕は自分のせいで彼女を殺してしまったと責めていた。やめろと言われても、そうしないと生きていられなかった。
死にたいけど死にきれない。生きたくないけど生きている。そんな毎日を過ごしていた。
どうして僕だけが生きているのだろう。
こんな思いをするなら忘れてしまいたかった。
彼女がいなくなることはわかっていた。
それなのに、こんなにも苦しい。
この現実から目を背けたくなる。
『このまま死んでしまったら……君が私の分まで生きて』
『私はね、湊大くんと出会えて幸せだったよ』
『ごめんね、好きになっちゃって』
忘れられるはずがなかった。
彼女が残した言葉は、色褪せることなく何度でも蘇る。
『……だから、生きてほしいんだ』
夢の中でも言っていた。
彼女はどうして、僕に生きていてほしいんだろう。
ドン。
隣の部屋のドアが開いた音。茜が部屋に戻ったんだ。
思い出したように僕はもう一度スマホを手に取った。
【ごめん。今日も食べられない】
文字を打って送信すると、茜から電話がかかってきた。
「……どうしたの」
「あ、いや……元気かなと思って」
ワンコールで出たから驚いているのか、少し動揺していた。
それもそのはず。僕はこれまで何度も家族や友人から電話をかけられていた。だけど、どれにも出ていなかった。
でも、今日はなんとなく。
「元気だよ」
「……うっ……元気ならご飯食べられるよぉ」
いきなり電話の向こうで泣き始めた。
「え、なんで泣くの」
今度は僕が焦って思わず体を起こした。
「心配してたの。最近はスマホでなら話してくれるようになったけど、顔も合わせてないし、声も聞けてなかったから。……だから話を聞いてあげることもできなくて、どうしたらいいのかなって、みんな悩んでて」
僕のせいでみんなに迷惑をかけていたのか。
そんなこと考えれば分かるが、今までの僕に人のことを考える心の余裕はなかった。
だから家にいるのに家族と顔を合わせる時間を避けて生活していた。
会えば弱い自分を見せてしまいそうだから。誰にも会いたくないんだ。今、鏡で自分を見るのも怖い。きっと見るに耐えない姿をしているだろうから。
「ごめん」
だけど、記憶にない何かを説明することはできない。だから、誰にも話せなかった。
「でも今電話に出てくれたってことは、少しは元気になったってことだよね?」
「……うん」
「よがっだぁ」
隣の部屋にいるから号泣する妹の声が電話越しでなくても聞こえてくる。
きっと他の人に話しても同じような反応をされるだろうな。……それなのに、僕はまた見えていないふりをするのか。
下を向くと自分の手が震えていたことに気づいた。弱々しくて、なにもできない頼りない手。
その手でシーツを握りしめる。
顔を上げると向こうから子どもみたいに泣きじゃくる声が聞こえてくる。
もう、見て見ぬふりはできないな。
信じてもらえなくても、疑われても、僕だけは信じ抜くと決めたんだ。
「ごめん。その……上手く言えないんだけど、大切な人がいたんだ。その人とした約束をなかったことにしたくて、目を逸らしてた」
生きてほしい。
水月さんはそう言っていたけど、彼女がいなくなった世界で生きるのがこんなにも辛く苦しいことだとは思わなかった。
だから忘れたかった。なにもかも、なかったことにしたかった。そうすれば楽になれると思っていたから。
自分の本音を、自分の口から零れてきた言葉で知る。
彼女の存在はこんなにも大きかったんだ。
僕のとって彼女はこんなにも大切で、失いたくなかった人。
「いいんだよ」
「え……」
聞こえてきた声は小さくて頼りなかった。
「逸らしてもいいんだよ。辛いなら逃げて、苦しいなら泣いて、見たくないなら目を瞑っていいの。……私はお兄ちゃんの気持ちを全部分かってあげられないけど、でも、その人のことを本当に大切に思っていたのは分かるから。だから、ゆっくりでいいんだよ」
その言葉に息が詰まる。
これまで、僕が抱えていることは誰にもわかってもらえないと勝手に塞ぎ込んでいたから。
「ごめんね、勝手なことばっかり言って。でも、みんな待ってるから。お兄ちゃんが元気になるまで、ずっと待ってるからね」
違う。
分かっていなかったのは僕の方だ。
僕の周りにいてくれる人たちはみんな、そんな温かい言葉をかけてくれる人たちなんだ。ちゃんと、みんなの声は僕の元に届いていたのに。
それに気づけなかったのは、自分のことしか見えていなかったから。一人息のできない場所にいて、押し潰されていたから。
これまで届いたメッセージは僕を励ますものばかり。
それに応えられないまま時間が経って、今日まで閉じこもっていた。
ゆっくりでいい。その言葉に心の栓が外れ、目が覚めた。
「……ありがとう、茜」
「うん……」
きっと、一人じゃ立ち直れないままだった。こうやって誰かが言葉にしてくれなければ気づけなかった。
だから僕も、応えたい。
待ってると言ってくれたみんなに。
生きてほしいと言った彼女の思いに。
ベッドの横にある窓に近づいて、ずっと閉めっぱなしになっていた部屋のカーテンを開けた。月明かりが町を照らし、淡い光が山の麓まで続いている。
時間がかかってもいいから、ちゃんと向き合いたい。
また前を向けるように、彼女との約束を守れるように。
悲しみに浸るのは今日で最後にしよう。
僕は通話の終わったスマホを置いて、乾いていた喉に水を流し込んだ。