遠くで何かが鳴っている音が聞こえる。
 それが自分のスマホの着信音であることに気づいたのは、鳴り始めてから数秒経ってからだった。

 僕は慌てて通話ボタンを押す。
 外はまだ夜が明ける前で、誰からかかってきたのか確認せずに「はい」と寝起きの声で返事をした。

「湊大くん?」
「え……?」

 電話の向こうの相手は水月さんだった。
 不思議に思って画面を見ると、そこに映し出されているのは知らない番号。でも確かにその声は水月さんだった。

「ごめんね、こんな時間に」
「いや、いいけど。でも、なんで番号知って――」
「茜ちゃんから聞いてたんだ。何かあった時のためにって」

 あいつ、いつの間に……。
 今思えば、なぜ自分は番号を教えていなかったのだろう。

「それでね、今どうしても伝えたいことがあって」

 その声は夜だからなのか落ち着いていた。
 けれど、どこか焦っているようにも聞こえる。

「……あのね、分かったかもしれない。呪いを解く方法が」
「えっ」


 電話を切った後、僕は部屋着の上からパーカーを羽織り、急いで家を出た。
 詳しい話がしたいから湖丘まで来てほしいと言われ、走って向かう。

 まだ薄暗い町のなか。道を照らす明かりも、この時間になると消える。
 空から差し込む微かな光を頼りに町を行き、山道へと辿り着いた。
 地面を強く踏みしめる足音と、静かに風が流れる音。
 息を切らしながらもペースを落とすことなく歩き続け、湖丘まで登るとそこに彼女はいた。

「ごめんね、眠かったでしょ?」
「走って来たから目は冴えてるよ」

 僕は彼女の隣に座った。

 夜が明ける前の暗い山の中では気温は下がり、湖の近くは少し肌寒い。

「呪いを解く方法だけど、何となく見当がついたの。だけどそれを実行するには代償が伴う。聞きたい?」
「それを話すために呼んだだろ?」

 彼女は「そうだったね」と笑みを浮かべながら、おとぎ話を綴るように話し始めた。

「私の過去の生き様は褒められたものじゃないから。終わりのないこの世に生き返ることが自分への罰だとしたら、助かる方法は自分にとって嫌なものなんじゃないかって考えた」

 その声は重く冷たいものだった。

「絵本を見て思ったんだ。私はさ、お姫様になりたくないって言ったでしょ?それじゃないかなって」
「どういうこと?」
「この世には王子様と結ばれるお姫様の話があるでしょ? そこに出てくる呪われたお姫様は、王子様の愛のキスで目が覚める」
「そうだね」
「私はお姫様ではないけど呪いの中にいる。今まで色んな方法を試したけど、この呪いは解けなかった。つまり、私一人じゃどうしようもできないってこと。私が一人で何とかしたいと思っても、誰かの力を借りないと助からない」
「つまり水月さんの呪いは、王子様と出会ったら解けるってこと?」
「フィクションが通じるならそうだね。神様が私の過去を知っていて、呪いを解く方法としてそれを選んだのだとしたら意地悪だよね」

 意地悪。確かにそうだけど、僕は別の意味があるのではないかと思った。
 それは、過去から未来へ託されたメッセージ。

 亡くなったはずの彼女がこの世にいるのは、助けを求められなかった過去があるから。助けを叫べるように用意された世界で、彼女自身が助けを求められるか神様は試したのではないだろうか。
 一人で生きようとする彼女(わたし)の隣に、誰かいてほしい。それが過去からの願いで、彼女の本音。

「見つかったの?王子様」

 それを聞くと、彼女は僕を指さした。「なに分かりきったことを聞いてるの」と言われなくても顔を見れば分かった。

「僕は王子様なんかじゃ」
「立ち位置的にはそうでしょ。呪いを持ってるのは私で、それを君は助けたいって言った」
「……はい」
「一度突き放したのに私のことを受け入れた。助かりたくないって言ったのに、助けたいって言った。君以上に、王子様に適した人はいないと思うけど」

 そんなことないって心の中では否定する。
 だって本当に、そんな柄じゃないから。

 でも他に彼女のことを救える人がいたら、それはそれで複雑だ。……なんなんだこの感情。

「君は、助かりたいと思ってるの?」

 今は違うことを考えたくて彼女に聞いた。
 以前の彼女は助かりたいと思ってないと言った。もし今もそうなら、こんなこと考えなくて済む。だから――。

「思ってないよ。でも、湊大くんに助けてもらえるなら、お姫様も悪くないかなって」
「それは僕が自分勝手に助けたいって言ったから?」
「違うよ」

 彼女は迷うことなく否定した。その瞬間、心臓が強く胸打つ。

「湊大くんが助けたいって言葉にしなくても、私は湊大くんを選んでたと思う」
「えっ……」

 何もない湖の先を眺めていた彼女が僕と静かに目を合わせる。

「私ね、湊大くんのことが好きだよ」

 熱を帯びた瞳で告げられたのは、僕がまだ伝えていない言葉だった。

「物語のお姫様を救うのは、愛のキス。つまり、私が好きになった人にしか呪いは解けない。……後にも先にも、私が好きなのは湊大くんただ一人。だから、今日呪いを解かなくても、その相手が変わることはない」

 彼女が僕を王子様だと言ったのは、水月日和にかけられている呪いを解けるのが僕しかいないから。
 本当に彼女が助かりたいと願っているのなら。今すぐに手を伸ばせと言う自分と、どこか切なげな表情を浮かべる彼女に躊躇っている自分がいる。

 助かる方法が見つかったというのに、どうしてそんな顔をしているんだ……。
 僕が聞く前に彼女が口を開く。

「それとね、もう一つ。私が主役の物語にはきっと、こう書かれてる。"その命が終わるのと引き換えに、あなたの呪いを解きましょう"。今の私は呪いに生かされてるから、それが解ければ私は消える。だから、簡単に呪いを解いてほしいとは言えない」

 彼女は、この世に生きている僕たちとは少しだけ違う存在。今、隣にいる彼女が生きているのは呪いがあるから。それを僕が解いてしまえば、彼女とは二度と会うことができなくなる。

 それは嫌だな。じゃあ僕は、どうすれば……。
 次第に息が浅くなる。段々と目の前が滲んでいって、いつもの冷静さを失っていく。
 彼女の呪いに隠された真実を目の当たりにして、何も考えられなくなる自分が憎い。

 ――僕はまた、なにもできないのか。

「僕は君に何もしてあげられてないのに、呪いを解くなんて……」

 ――そんなこと、できるわけない。

 頭の中にノイズが響く。彼女の呪いを解きたい。だけどそれで彼女が消えてしまうのは嫌だ。でも……僕は言ったんだ。呪いを解きたいと、一緒に生きてほしいからと。

 "今"から目を逸らしたくなって俯いた僕に、彼女は「そんなことないよ」と言った。

「これは呪いなんだよ。それなのに湊大くんは呪いの中に自分から入ってきて、公園に一人でいた私に声をかけてくれた。君の言葉も、助けたいって言ってくれたことも、そばにいてくれることも、全部。私の救いになってるんだよ。なにもしてあげられてないことなんてない。だから、顔を上げて大丈夫だよ」

 彼女は僕の頬を両手で包み、視線を合わせて笑ってみせた。

「言ったでしょ?湊大くんは自信持っていいんだよ」

 言葉が喉に詰まり、上手く話せない。
 だから唇を噛んで小さく頷いた。

「ごめんね、好きになっちゃって」
「……なんで謝るの」
「だって君、気にするでしょ?僕が彼女を救ったせいで殺してしまったんだって。……それだけは嫌なの。だから私からは言わない」

 僕が彼女を救わなければ、まだ一緒にいられる。でも僕が呪いを解かなければ、彼女はずっと呪いの中に閉じ込められたまま生き続けなければならない。それにもし僕が先に死んでしまったら、彼女は永遠に助からない。

 そんなの、どちらを選んでも僕は……。

 彼女はそれでも、助かりたいと思っているのだろうか。
 たとえ呪いに生かされていたとしても、みんなの目には見えているし、ものに触れることも好きなものを食べることだってできている。
 呪いを解いてまで、君は――。

「私はね、湊大くんと出会えて幸せだったよ」

 僕の心を見透かしたように彼女は言った。

「だから消えることに後悔はないんだけど……。せっかく私が湊大くんにとっての生きる理由になれたのに、一緒に生きられないが申し訳ないなって」

 自分の人生なのに彼女は最期まで僕のことを考えている。
 君の方が優しいじゃないか。
 そうだ。運命は優しくて、残酷なんだ。

「でもこれは私が勝手にそう思ってるだけだから。ハッピーエンドの物語と同じで、私が本当にお姫様なら、呪いが解けて王子様と結ばれるかもしれないし」

 そんな未来が待っているのはハッピーエンドの物語だけで、この世に生きるもの全てがハッピーエンドを迎えるわけじゃない。
 そんなこと、彼女だって分かっているだろう。

「そんな不安そうな顔しないでよ」

 君だって辛そうな顔で笑っているじゃないか。そんな言葉を口にする余裕はなかった。
 本物の王子様なら、こういう時どうするのだろう。呪いも解いて、彼女が僕たちと同じように生きられる魔法をかけるのかもしれない。誰も悲しまない未来を選択できるのかもしれない。
 でも僕にそんな力はない。
 彼女をこれからも生かすか、ここで終止符を打つか。
 決めたくない。

「じゃあ賭けみてる?」
「賭け……」

 冷たい岩の上に乗せていた手に、冷たい手が重なる。

「もし私が生き返って、もう一度湊大くんのところに帰って来られたら、その時は一緒に生きてほしい。
でも、このまま死んでしまったら……君が私の分まで生きて」

 繋がった手に涙が落ちる。

「君は、ありのままの私を肯定してくれて、受け入れてくれた。その時からずっと、湊大くんは私にとっての生きる理由だった。私を見つけてくれたのは君で、受け入れてくれたのも君で、自由でいられるようになったのも君のおかげ。だから、私だって消えたくない」

 今までで一番芯のある強い声が響いた。
 どちらかを選べと僕に託したくせに、それはずるくないか。

 好きになった人にしか解けな呪い。そして物語を終える唯一の方法は、本物のおとぎ話のようで。だけどどこか違う、甘く切ない終焉。

「消えたくないけど、本当はもう消えている存在なんだ。だから、早く帰らないと」

 溢れた涙と掠れた声が風に乗って消えていく。

 僕は、ありのままの彼女を肯定して受け入れた。僕も、彼女にとっての生きる理由になっていた。
 このまま一緒にいる時間を伸ばしても、この気持ちが消えるわけでもないし、僕が先に死んでしまったら彼女は永遠にこの世を彷徨うことになる。
 長くいればいるほど別れが辛くなるのなら、いっそのこと今ここで呪いを解いてしまった方がいいのかもしれない。
 彼女もきっと傷が浅く済むうちにと思っているから、僕に打ち明けたんだ。

 ……それなら僕にできることはひとつしかない。

 覚悟を決めた手で彼女の手を握る。

「僕も君が好きだよ」

 初めて言葉にした気持ちに胸がはち切れそうになる。緊張と不安と愛情が入り交じる複雑な感情を呑み込んで、ゆっくり瞬きをした。

 鼻を啜って深呼吸をした彼女は、これから僕が何をするのか悟ったように、その手を握り返す。

「やったね。両思いじゃん」

 彼女は笑っていた。

「だから生きてほしい」

 わかっていた。君の存在は他とは違うことを。

「私も生きたい、湊大くんと一緒に」

 わかっていた。いつかは終わりがくることを。

「……待ってるから」

 叶わない願いだとしても、君と一緒に生きたかった。

「うん。……でも、約束忘れないでね」

 この選択を、明日の自分は後悔するかもしれない。いや、どちらを選んだって僕は後悔する。そんな人間なんだ。

「――あぁ」

 僕の伸ばす手を受け入れるように彼女は目を閉じる。そして、熱を宿した頬に手を当てそっと唇を近づけた。

 願わくば、このまま全てを攫ってしまいたい。そんな叶うことのない望みがとめどなく溢れてくる。

 離したくない。

 誰もいない月夜の熱に、お互いの息が溶ける。

 感情を抑えることを忘れ、開いた口に頬を伝う涙が滲んだ。

「ありがとう――……」

 最後に目を合わせた君は、涙を流しながら微笑んでいた。



*̩̩̥






 懐かしい場所。
 こんなところに来たのは初めてかもしれない。

 目の前に広がっているのは何年前かの淡譚通り。
 時刻は夕方で、自分の伸びる影を見てみると案外小さかった。

「あ、子どもに戻ってる」

 着ている服と握った手のひら。走った時の体の軽さから考えて、小学一年生。

 あ……。

 顔を上げた視線の先にいたのは、あの日同じように町を見つめる男の子。
 その姿を見つけた私は、迷うことなく駆け寄った。

 全力で走る体に強く風が当たり耳元で騒ぐ。
 早く、会いたい。
 転びそうになる足を前に出し、遠くで待っている光に手を伸ばした。

「ねぇ!」

 大きな声で呼ぶと、その子はびくりと反応して振り向いた。

 間違いない。彼は湊大くんだ。
 きっと子どもの頃だから私のことは分からないだろうし、君にとってはこれが初めての出会いになる。

 もしもこれが本当に過去の世界なら、その記憶を少しだけ、上書きしてもいい?

 こちらを見て固まる彼に、流していた涙を拭いて息を吸った。

「私はずっと、君が羨ましかった。私の持っていないものを持っていたから。温かい家族も、笑い合える友達も、自由に生きられる未来も持ってる。……だから、生きてほしいんだ。君はまた自分も責めてしまうかもしれないけど、そんな必要ない。だって、君と出会えた私はこんなにも幸せだから」

 こんなにも君のことが大好きなのに、このまま一緒にいられないのが悔しい。

 初めは私が私の後悔を晴らすため、君のためにできることをしようと思って相談を聞いていたつもりだった。それなのに、いつの間にか助けられてたのは私の方だった。
 君は私に、温もりの味を教えてくれた。温もりの色を教えてくれた。未来の可能性を教えてくれた。幸せを教えてくれた。
 君は私のことを肯定して、自由な世界に連れていってくれたんだよ。

 だから君が、私のことを覚えている君が、私の代わりに生きてほしい。
 彼は最後に交した約束を覚えていてくれるだろうか。
 本当に私が死んだら、みんなと同じように彼も私のことを忘れてしまうかもしれない。
 それでも、伝えたい。

 大きな夕日を背中に抱える彼を見て、私は笑顔で言った。

「ありがとう」

 最後の言葉を口にすると、小さな湊大くんは、ふにゃりと笑っていた。

 私はずっと君の幸せを願っている。
 大好きだよ、ありがとう。

 眩い光に照らされた体が少しずつ消えていく。
 どうか私の願いが、今を生きる君に届きますように。

 そっと目を閉じると、温かい風に体が包まれた。

 またね――。