今でも夢を見ていたのではないかと思ってしまう。

 誰もいない夜の湖で交わした言葉。
 彼女の声と向けられた表情が頭を過ぎり、あの時の体温が蘇る。彼女に触れられたのはこれで二度目だ。

「ぁ~……」

 居心地が悪く感じ、髪をくしゃりとかきあげる。

 結局あの後、訪れた無言の時間にお互い耐えられなくなって、湖丘を後にした。


 カレンダーを見ると、申し訳ない程度の印が書かれている。約束の日は明日。連休最後はホワイトタウンにあるショッピングモールに行くため午前中から待ち合わせをしていた。

 普段の連休よりも客足が伸びていて、どこの店も忙しくしている今年の連休。そんな時間は嵐のように過ぎていき、気づけば前日……。
 家族がモチュのオリジナルグッズの売れ筋が良いと盛り上がっているなか、僕は一人部屋で頭を抱えていた。
 店に出ていた時はそれなりに落ち着いていた。茜に突っ込まれることもなかったから、表情にも出ていなかったはず。けれど、いざ約束の日を目の前にすると落ち着かない。

 それに、あの日彼女に言った自分の言葉が忘れたくても頭から消えてくれない。思い出したくないのに、何も考えていない空っぽの脳内では勝手に再生される。

「あれはさすがにかっこつけすぎたか……」

 自分の発言に消えたくなっていると、スマホの着信が鳴った。

「よぉ。珍しいな、湊大の方から話したいことがあるって」

 電話の相手は怜斗。
 相談したいことがあると連絡をしたらすぐに返事をくれた。正直、この手のことで頼れる相手はこいつしか思い浮かばない。
 連休中ゲームをする約束もしていたが、あまりの忙しさに全く顔を出せていなかった。しかし明日出かけることを知っていた茜から早めに休むように言われ、今日は時間があった。

 早速本題に入ろうと、明日のことを話す。

「アノサ……女性と二人で出かける時って、どんな感じで行ったらイイ」

 怜斗相手に言葉がカタコトになっている。既に危ない。

「お前大丈夫か?」
「平常心でいたいとは思ってる」

 言葉通り平常心を取り戻すため、ペットボトルに入った水を飲んだ。

「湊大って見た目によらず奥手だよな」
「お前みたくチャラい見た目してねぇだろ」
「女子にモテそうな見た目しといて、そういう経験ないよなってことだよ」

 人と距離をとっている人間は誰かと付き合うという発想にはならないんだよ。だからこんなことを友人に相談する日が来るとは思っていなかった。

「てかいつの間に彼女できたんだよ」
「……彼女じゃない」
「彼女じゃないなら、好きな人か。そうじゃなきゃ俺に連絡してこねぇだろうし」
「……」
初心(うぶ)かよ」

 通話越しの怜斗はなぜか楽しそうにしている。
 こいつはこんなことでいちいち緊張とかしなさそうだな。
 こういうところは羨ましいと思う。

「でもそうだな。やっぱり自然体でいるのがいいと思うぜ。色々考えるのも分からなくはないけど、湊大は普段から気が利くし、相手のことよく見てるからな」
「そうか?」
「うん。それを自覚無しでやってるっていうのがまた憎いよな」

 昔はよく家族と出かけていたし、今でも休日になると茜と買い物に行くことがあるから、その時と同じでもいいってことか?
 いやでもさすがに彼女相手に家族と同じ距離感で接するわけにもいかないだろ。

「けど、女心なら俺よりも詳しい人がいるだろ?不安なことがあるならその子に聞けよ」
「……茜のことか?」
「あぁ」

 確かに茜なら水月さんのことを知っているし、何かいいアドバイスをくれるかもしれない。でも妹に相談するというのは個人的にハードルが高い。服の相談ならまだしも……。
 妹からしても、兄の恋愛相談を聞かされるのはどうなんだろうか。できれば茜に聞くのは最後の手段にしたい。

「湊大」

 無言になった僕に気遣ったのか、怜斗はいつものテンションで言った。

「自信持てよ、湊大(おまえ)はかっこいいから」

 こいつ、出会った頃から容姿褒めてくんだよな。
 最初は鬱陶しかったけど、今回ばかりは背中を押してくれる言葉だった。

「ありがとな」
「おう。楽しんで来いよ」

 怜斗と話していたら自然と肩の力は抜けていた。

 通話が切れると画面に表示されたのは【また時間あったらゲームしような。】というメッセージ。
 今までもこいつの何気ない優しさに助けられてきた。
 怜斗がいてくれてよかったな。
 僕はもう一度【ありがとう】と言うと、隣の部屋にいる茜に声をかけにいった。


𓍼ˢ❀


 『これで完璧』

 昨夜、茜に決めてもらった服を着て出かける準備は整った。

 鏡の前に立って自分の姿を見る。
 普段私服は暗めの色が多いけど、今回茜に勧められたのは爽やかな色の服だった。
 自分じゃこんな服選ばないのに、茜のやついつの間に……。
 なかに着ているTシャツは自分のだが、その上に羽織っているのは買った覚えのない五分袖のシャツ。昨日、これはプレゼントだと言って茜から渡された。

「いくか」

 時計を見ると、約束した時間の三十分前だった。
 最終確認をしてボディバッグ片手に部屋を出る。

 下に降りると開店前のはずの店がなぜか騒がしかった。
 中から顔を出すと、開店準備をする両親と、誰かと話している茜が見えた。
 あれ、一人人数が多いような。
 僕は靴を履き替えて、その人物がいるところに向かった。

「茜が言ってたピンチヒッターって、叶山だったのか」

 何やら楽しげに話していた二人に声をかける。
 そこには店のエプロンをつけた叶山がいた。

「あぁ。連休前に連絡もらってな」
「なんて言って頼んだんだ?」

 茜に訊ねると、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりの笑みを向けられた。

「次のテストで全教科九十点以上取れたら何でもひとつお願い聞いてくださいって言ってたから、そのお願いを叶えてもらおうと思って」

 それって確か前に渡してほしいって頼まれた手紙に書いてあったやつ。

「こんなのでよかったのか?」

 僕のせいで一つしか叶えられない願いごとを消費させたみたいになってるけど。

「うん!ちょうどよかった」

 その笑顔から本心なのは伝わってきた。
 それはそうと叶山もよく呑んだな。

「お前はよかったのか?」
「まぁ、約束してたからな。それに連休中家に籠りっぱなしだったから、いい気晴らしになると思って」

 逆に茜に頼まれなければ家から一歩も出るつもりなかったのか。叶山のことだから連休中は勉強しかしないとか言ってそうだな。

「それならいいけど、慣れないことして体調崩すなよ」
「そこまで弱くねぇよ」

 母さんも叶山とは面識があり、「叶山くんが手伝ってくるなんて頼もしい」と言ってたし、こいつなら上手いことやってくれるだろ。

「あかねー!ちょっと来て!」
「はーい!じゃあお兄ちゃん、いってらっしゃい!」

 茜が呼ばれていなくなり僕も家を出ようと、すれ違い越しに叶山に言った。

「悪いな」
「いいよ。デートだろ?」

 そのワードに思わず足を止めた。

「……怜斗か」
「ご名答」

 別に口止めしていたわけでもないし、知られて困ることではないけれど。……なんか嫌だ。

「お前はデートのつもりなくても、男女が仲良さげに歩いてたら周りはそう思う。いつもみたいな暗い顔で歩いてたら、隣を歩く彼女が可哀想だからな」

 相変わらずひと言多い。こいつは何かしらひねくれたことを言わないと気が済まないのか。
 だけどこれが通常運転なのは分かっているし、多分叶山なりに「ちゃんとしろよ」って言ってくれているんだろう。

「分かってるよ」

 そう言って、太陽が照りつける外の道に出た。




 家の店のオープンは九時からだが、他の店は既に開店していて、連休最終日も淡譚通りは観光客で賑わっていた。
 この様子だとホワイトタウンの方も人が多そうだな。

 空を見上げると雲ひとつない快晴だった。
 おかげでまだ五月の上旬だと言うのに、既に蒸し暑い。
 僕はできるだけ日陰を通って歩いた。

 車とバスが行き交い、路面電車が走るホワイトタウン。
 地下鉄の駅が併設された建物からは、途切れることなく人が出てくる。
 人混みが苦手というわけではないが、好き好んで人が多いところには行かないから耐性がない。叶山に体調崩すなと言った自分が人酔いして潰れそう。
 なんとなくの感覚で、人が少なくなったタイミングを見計らい建物へと入った。そのまま二階に向かって待ち合わせ場所の広場を目指した。

 約束をしていた時間の十五分前。まだ水月さんは来ていなかった。
 今日は何をするのかまだ決めていないと言っていたから、行き当たりばったりになりそうだ。遠出はしないと言っていたから恐らくここ周辺を見て回るんだろうけど、ホワイトタウンには付き添い以外の目的で来ることがないからどんな店があるのか知らない。
 予め地図でも把握しておくかとマップを手に取った時、遠くから走ってくる音が聞こえた。

「湊大くん!」

 声のした方を見ると、こちらに向かって手を振りながら向かってくる水月さんがいた。

「ごめん、待った?」
「いや。それにまだ時間前だし」

 息を切らして走ってくるその姿が過去と重なり、呼吸を整える彼女を前に自然と言葉が出る。

「なんて言うか、よく走るね」
「その割に足は速くないけどね」

 どこから走ってきたのか分からないけれど、髪はあまり乱れていなかった。
 ここは休憩した方がいいのだろうか。それとも何か飲み物を……。

「行こ!」

 考えている間に手を引かれ、そのままついて行った。

 話を聞くと、彼女もホワイトタウンを歩くは初めてだそうで、行けるところは全部行きたいと意気込んでいた。しかしホワイトタウン全体を回るには一日では時間が足りないので、今回はショッピングモールを見て回ることにした。

「私服で会うことなんてないから、なんか新鮮」
「服は茜が選んでくれて」
「へー茜ちゃんが。ほんとに仲良いよね。じゃあ私の服は?似合ってる?」
「似合ってる」
「可愛い?」
「可愛い」
「オウムか」

 だって人の服を褒めたことなんてないし。可愛い、似合っているというのも本心だ。柔らかくて優しい色のワンピースも、綺麗な髪留めも似合っている。
 エスカレーターに乗りながらそんな話をしていると最上階に着いた。ここは地下二階と地上四階までしかない。それでも店内は広く、終わりの見えない道が遠くまで続いている。
 こんな場所が、山に登れば町全体が見渡せる淡譚通りの隣にあるなんて信じられない。
 本当にあの町は時が止まった町と言われるだけあるなと実感した。

「実は今日、私が行きたいお店は一つしかなくて。あとはぶらぶら見て回るだけになるかもしれないけど、平気?」
「うん。気になるところがあればついてくから」
「ありがとう」

 不意に向けられた笑顔に胸が高鳴る。
 こんな調子で今日一日大丈夫なのだろうか。気を紛らわすために僕は話を続ける。

「その行きたいところって、パンケーキ屋だったりする?」
「え、正解!よく分かったね!」

 先月オープンしたばかりの店で、広い世代に人気のパンケーキ屋なんだとか。
 事前にどんな店があるのか調べていて、甘いものが好きなら絶対に行きたがるだろうと思っていた。

「美味しいパンケーキが食べられるように歩かないとね!ということで、端から端まで歩きます!」

 ショッピングモール全体を歩いたら何kmになるんだろうか。
 前を向いた僕のため息が笑い声に変わる。いつもなら即帰りたいと思う提案でも、今日は違った。
 彼女といられるならどこへでも行きたい。口にはしないけど、それが伝わっていればいいと思った。


 それから彼女は宣言通り、ずらりと立ち並ぶ店を見て回った。一店舗長くても滞在時間二分ほどで終わるけど、一階を見て回るのに一時間以上はかかる。それくらい広かった。

「あ、みてみて!この子湊大くんに似てる」
「……そうか?」

 次に入ったショップで彼女が見つけたのは、シャチぬいぐるみだった。

「かっこかわいい」
「シャチの方がかっこいいだろ」
「でた、謙遜」
「いや普通シャチと比べるか?」
謙遜大(けんそうだい)くん」
「……ダサ」
「あははは!」

 彼女が無邪気に笑うものだから、僕もつられて笑う。

「隠さなくてもいいと思うけど」
「ダサいから見られたくない」
「見たことあるけど」
「忘れろ」
「はーい」

 そう言ってシャチを元の場所に戻す。並べられたぬいぐるみを見ても、僕に似ているとは思えない。
 それでも、彼女が似ていると言ってくれたのだから、多少どこかしら数ミリ程度似ているのかもしれない。

「じゃあ次行こー!」

 僕は彼女の隣を歩いて、服屋、靴屋、手芸屋、楽器屋、ジュエリーショップ、アンティークショップと色々見て回った。

 僕も何気なく雑貨屋で商品を見ていると、あるものが目に留まった。
 桜の花びらが上品に添えられた木製のコップ。
 温もりを感じるデザインで、端に小さく描かれている桜が公園で会った時のことを思い出させる。

 ラスト一点。

「何かいいものあった?」

 他のものを見ていた彼女が帰ってきて、背後から声をかけられた。独り言のように呟いた言葉は聞かれていないようで、僕は「なんでもない」と答えた。